LDN通信 2016年12月号

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文化の多様性と産業の多様性こそが人類の繁栄とその社会の活力を生む。
この多様性とまた高い倫理における統一性こそが人類に望まれることである。
自然界は実にこのことを素直に表現している。
還元論的思考でなく、システム論としてのアプローチ、構造的理解、相互の関係性における存在の分析、
そこに多様性と統一性の統合形態が生まれる。
仏教の縁起こそはこれにあたる。
人類の幸福を担保するもの、それは個々人々の心の真実であり、虚空の真実である。
それは清らかな思いで...[あ]...満たされている。このことを菩提心という。
そこから生まれる尽きぬ思いこそが慈悲である。
実に慈悲を感じそこに生きることは永遠の命を生きることである。
終わりあるこの身を超えて生きることとなる。
総ての優れたる聖者は此処に生きている。
幾多の仏も菩薩もこの中で生きている。
夜道の暗さは光にて明るく、凍える大地は太陽の熱で溶ける、人々の苦悩は仏の慈悲で癒される。
私たちはこの慈悲の心で他の人々を認め許さねばならない、己の喜びを人々に分かち与え。
他の人々の苦悩を己のごとく感じる必要がある。そこにしか真実の安心と幸福は生まれない。その時人は真の意味で孤独の牢から解き放たれる。

LDN通信 2016年11月号

印刷用画面
人類の有する平等の権利は、真理を希求し善を愛する権利として存在する。
それは職業的差別、性差別、権力差別等を排し、心の自由と行動の自由を保全する試みでなければならない。
人は真理の前において裁かれる存在であり、真理において生かされる存在である。
心の赴くところに己を置く権利を有する。
如何なる人も真理を求める上でいかなる障害も排除する覚悟を有する。
善を行う上で如何なる躊躇も必要とはされない。
この不変の原理は人類を貫く普遍の信条であり、人類繁栄の鍵となる観念である。
国家においても、現在の多国籍企業においてもこの倫理性が求められる。
現在世界は富の再分配をいかにするかが問題としてある。
人類普遍の福祉に元づく行動の基準が求められる。
特には企業活動における高い倫理性が求められる。人の価値をいかに再確認するかが、今問われている。
世界三大宗教においては人の価値において最大の評価を与えその教義の中に記す。
こと仏陀は菩提心の平等をその根幹として僧伽を束ねた。その精神は大乗の諸経典において再確認されている。
人間の霊性に対する理解と配慮こそが最も大切な事柄である。
それは物としての人間や機械のように消耗品としての労働力としての人間観からの脱却を意味する。
肥大化した経済は人格を凌駕していく、人は正気を失い、残酷になり無関心になる。
現在の社会が有する膨大な力を支える人間の力が試される。
人間の価値を再発見すること、霊性ある己を見出すこと、人の霊性を見出すこと、ここにこそ解決の道は見えてくる。

LDN通信 2016年10月号

印刷用画面
人間としての行動規範をどうするか。
これが人間の価値を左右する行いの鋳型を形成する。
自己の利益と共同の福祉も共に満足する内容であることが望まれる。
それは人の生命の尊重をその中心課題として扱う必要がある。性別や人種の壁を越えて、宗教や文化の垣根を超えて形成される観念である必要がある。
総ての人類は幸福を共に追求する権利を有する。
その人権の発露たる思想信条の自由は総ての人類に与えられた自然権であり、いかなる社会制度もそれを犯してはならない、ただし人類の福祉に相反しない権利の行使である必要がある。
この平等の権利は世界三大宗教の根幹であり、民主主義の前提条件である。
それは神のもとの平等であれ、自然権であれ、個々の生命は平等である。
そのように観念されそのように扱われなければならない。
宗教的ドグマは排除され、思想的偏向性は否定される必要がある。
それこそ真実を求め実現すべき課題である。
我々は己の心に問うてこれを捨て去る知恵と勇気を持つ必要がある。
世界の改革は個々人の人格の如何よる。
あなたの心があなたの行動が世界を動かしている。
他の何物でもない。
仏陀の道とはこのような道である、己を律して己に問うて己に勝利し己に安住する。
そしてその自由を他にも及ぼす。
真実の僧伽とはそのような集団である。
そこには真実と認識された法のみがあり、純粋な思考と感性がある、それにおいて練磨された人格が生まれる。
我々仏法者はこの道において己を練磨して生きる。
お釈迦さまの草座,達磨大師の面壁、弘法大師の残された道はそこにある。

LDN通信 2016年9月号

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不幸にして己の知性と感覚に狂いが生じている場合は、自ら改める他術がない。人は己の知性と感覚を点検して日々過さなくてはならない。より深い理解と洞察が困難を解決へと導き、深い感性が世間に対しての共感を生む。
人は自らの行いにおいて自らを築くのであり、他の何者もそれを成しえない。人は己の存在において、いかなる権力も権威もそれを犯すことはできない。この自然なる権利はいかなる者にも付与された権利であり、いかなる思想信条や経済的利害においても犯さざれる権利である。
人は互いの権利を尊重しつつ、共同の福祉を追求すべき存在である。ここに道徳規範と法規範を備えた社会機構を有する現代社会がある。
世界の主な宗教の有する道徳規範は同根同類である。それが社会的利害の枠組みでいかに変わろうがそれは不変の価値であり意味である。
慣習法にしろ成文法にしろそれは互いの人権を守ることを目的として成立することが最大の目的であらねばならない。
個々人の人権を擁護することがひいては人類の福祉に連なるものだからである。そこで人は真の自由なる人格として責任ある行動が求められる。権利の行使には当然として重い義務が求められる。
そこに踏みとどまって己の行為を律することこそ開かれた人格であり、それを実現する社会こそ我々にとって必要な世界なのである。
人は利害の対立において他の生存の権利をいとも簡単に犯しやすい、他の人々が血を流す姿のその時は己がその痛みを感じなければならない。己の喜びは他に分け与えてともに喜ぶ。そこに人間としての霊性がある。

LDN通信 2016年8月号

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人は己の行いにおいて己を縛り、己の考えに基づいて世界を語る。己の行いが己の人生をつくる。
己の考えが己の世界を決定する。
いかなる仇も己の行いの果実であり、偶然に起きることではない。己の行いを省みて己の行いを正す。
世界に対して不満多いときは先ず己の考えを正してみる。世界が閉じているのではなく、
己の考えが至らないが故の誤解であることに気付く。
真理を求め生きるとは実にシンプルである。注意深さと反省である。
己の身と心をよく制する。そこに秘密がある。暴れ馬を制するがごとく、己を制する。
己によく打ち勝つものは聖者と呼ばれる。
それは山に隠遁するから聖者ではない。
己の身から出る欲望を律して身を清らかに保つ、己の心を治めて智恵の道に入る。
衆生の煩悩から離れて、慈悲を行ずる。それは町中の喧騒においても、日常の生きざまにおいて行うことである。
心に仏を抱けばそこは菩薩の浄土である。
ダルマを口にすれば三界の導師である。姿を比丘にかりれば僧伽は現前する。
およそ物事は空相において存在する。如何なる己の作為もこの事実の前では力を持たない。
因果の道理をよく理解しておおらかに生活する。心を縛ることを止めて虚空に従う。
涅槃はすでにあると確信して仏の道に従う