LDN通信 平成27年9月号

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人生は自己の選択そのものである。人生は終わりが在るものである。存在は因果律に支配されている。
物事を洞察する時得る答えである。儚き朝露の如く消えゆく人の命、夢の如く去りゆく人生、幻に幻を重ね合わせるがごとき人生の事柄、人が決め得る事には確かなもの等存在しないが、人は己の判断に総てを委ね懸命に生きて行く。悲しくも誇らしい人の生きざま、悲劇にも喜劇にも思える人生劇場、終幕の迫るその時まで劇は止まない。
己の生きざまと人の生きざまの交差する物悲しくも切ない物語、幼子のその時から老いたる人と成るまで、時は止まず、日は廻り、年を重ねる。
真実の己とめぐり合う人は稀であり、世界の真理を体現することは難しい、不安の中で安心を迷いの中で知識を疑いの中で信頼を人は求めてさまよい歩く、おおよそ人はその孤独ゆえ判断を誤り己を傷つけ人々を嘲り悪戯に血を流す。
賢者はその事に目覚め、深く思考して答えを得ようとした。それこそ人間の霊性であり可能性であり、人間の証である。
沈思して真実の知識を愛して生きる、この知識によって行動する、結果文明と文化が生まれる、人間社会の成立である。
人間の思考と感性は如何なる牙より鋭く如何なる剣より鋭利である。これに気づき是を磨きあらゆる難題に答えを出す事これが人の課題である。
貴方のその心に秘密の答えは書いてある、さあ深く心を静めて問うてみよう。

LDN通信 平成27年8月号

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物事は様々な条件の元に成立していると共に様々な意味を含んで存在している。人は己の関わり方においてそれを捕え意味を付加して、それを物事の存在意義であると認識する。
己の存在意義においても、それは客観的事実にもとづいて判断していると思っているのだが、実は己の都合上の問題である事が多い。
たとえば嫌いだから悪いことである。好きだから良い事である。と言うような己の感情の折り合いのために正義の旗をたなびかせる事がよくある。
普遍的価値や絶対的意味を求める事はなかなか難しい。己の人格的習性を超えて哲学することは古より多く試みられて幾多の思想を生みだし文化を創造してきた。
人間のこの思考の性向は豊かな世界を創ると共に悲惨な争いを生みだした。
賢哲の関心事は最終的には絶対なるものとの出会いであり、体感であった。
思考において雑多に見える現象を整理して法則を見出し、この法則の背後にある絶対的意志又は精神を感じる。これが人間の思考の高まりであり人の霊性である。
祈りを持つ事は人間であることであり、思考の深まりを喜ぶ事は人の人たる所以である。
豊かな感性と深い思考、清らかな祈りに満ちる事は人としての最大の喜びである。
己の豊かな人格をあじあう人は実に賢明な人生を歩いていると言える。その幹からは常に新しい果実が時とともに実るからである。

LDN通信 平成27年7月号

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命を繋ぐと言う事は、命に囲まれて生きる事、命を奪いあう事、与えあう事。生きると言う事は、様々葛藤に出会う事。真実を見ることは、己の都合を離れて観察の目を養い、たとえ辛くともよく耐え忍び、己の心を平静に保ち悟りによる安心と平安に心を向ける。
そこに苦悩の本となる無明を破る智慧の道が開ける。人は己の真実に心を向けず、己の欲望に人生を見る。真実は常に都合が悪く、真実は常に己の自我に脅威を与えると錯覚する。その事は自覚に登る事がなく、無意識の内に行われる心の作業である。この事は実に愚かである、又危く頼りない。
己に勝利することは人生に勝つことであり、人々の幸福を増す事である。まず「己の在りよう」と「存在の在りよう」とを観察して、よく感じ、良く洞察し、深く認知を起し、己の思考と感覚を統制しなければならない。実にそのようにして賢者は己を苦悩から解放し人々の燈と成りえた。
人々との争いに勝利してもそれは幻想であり一瞬の夢である。幾多の人生がそれを物語る、常に勝利する戦いはなく、滅びざる栄光はない。
己に勝利するものには、永遠の平安と喜びと人々ヘの深い同情があるのみである。
心の方向を変えよう、それが唯一幸福の道である。
滅びゆく道を歩く者は実に愚かであり、永遠の至福を願う者は賢者である。

LDN通信 平成27年6月号

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おおよそ人の関心事は、現実として認識される。人の数ほど認識は様々な様相を呈する。それは個々人の人生の意味であり、譲れぬ価値だったりする。ここで問題なのは、それは真実にもとずく意味や価値ではなくとも既に存在する歴然とした存在意義なのである。
現実と言う世界は実に矛盾と葛藤に満ちている。生と死の狭間、得ることと失う事の狭間、愛と憎しみの狭間、これらの狭間で人は終わらぬ夜を過ごす。
どうしても人は己の意とする意味を人生に求め、あるいは求めさせられ、真実からは遠ざかる。
人は様々な脚本を描いて、それを演じる。現実と語る自分の脚本を演じ続ける。真実は行いの因果性であっても、人は己の欲求の実現に意味を見出す。生きると言う事は、様々な葛藤を背負い込むことであり、燃え盛る不満の炎の中で身を焼く事である。
そこから恨み、悲しみ、嫉妬や羨望等が渦巻きだすのである。
一度己の脚本を自我に引き出し、分析して、再評価を与え、修正して、統合していく必要がある。
己の人格に眠る、行動の動機、存在の動機は意識されないまま運命を構成し続ける。
賢く生きるには、この事をよく自覚して己を観察してパターンを見出す事である。
そこから真実にもとずく世界観や人生観の構築が容易になる。

LDN通信 平成27年5月号

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人間の観念は時代を経てさまざまに累積され文化を構成し、又発展してきた。
宗教や芸術のみならす、政治や経済等々にも及ぶ。
人間は観念を生みだして、又それに縛られる。
それゆえ争いを正当化して歴史に爪痕を深く刻む。観念は言語として人々の記憶に残され、遺産となる。
この相対の世界は又差異の世界でもある。
観念は多くの場合この差異の体系の根拠となる。
詰まりは言語の根拠なのである。
存在と言語の不可分性は実に用として巧みである。
観念において考えられたもの事は、数字に置き換えられてビルとなり車となる。
はたまた運動の原理を言語で証明して、宇宙空間に衛星を飛ばす。
行動は言語に翻訳されて記憶にとどまり、又言語はその行動を思い起こさせる。
より良く思考してより良く語る事は、より良き人生を送る元となる。
正語することは己の心を修め、行動を制することとなる。言葉の力の偉大さと観念の力をよく理解して生きる事が人としての教養である。