生命の祈り(2)

 

 

随分暑くなってきました。いかがおすごしでしょうか。

真言寺の庭では せみが「 今、一夏の 命だ ミンミンミンミンミン・・・」と鳴いています。蝉の声に答えて、また様々なご質問を寄せてこられた方のためにも、もう少し書くことにいたしました。

 

 

人が聖なるものに触れようとするときには、色々な動機があると思います。生きていることが矛盾に満ちて、あまりにも苦しいため「苦しみを何とか無くしたい」と祈ることもあるでしょう。欲しいものが手に入るようにするための「願い」であるかもしれません。「年老いた底知れぬ不安」であったり、「愛する者の死」であったり、「病気」であったりするかもしれません。これは総て仏教で「四苦八苦」と 言われるものです。

 

人間として 逃れられない 存在の 根源である「苦」が あります。「存在の矛盾」である「苦」を お釈迦さまは 解決されました。

 

そうです 菩提樹の下で 瞑想に 入られたのです。それは 深い存在の 分析とともにありました。 

  

しかし時を経て 時代を刻み 大乗仏教がおこり、般若、空そして「唯識」といわれる精緻な存在論を形成し、最後に如来蔵から密教へと教えは変遷していきます。

(「存在論」という言語を私はつかいますが、勿論認識論ともいえますし、宗教的真理といわれる場合も考えられます。 

密教では、お悟りの 内容を 総て象徴で表現して伝えました。それは荘厳され象徴化された存在の分析「曼荼羅」とともにあります。

 

ですから曼荼羅の精神を伝え、祈ることで 次にまた 誰かが気づき 問題を解決するのだと思います。

 

近代の新しい科学という方法論の動きの中で、フロイトは人間の根源に横たわる存在分析を、全く手がつけられていない女性の問題をも含めて見事に学問の土壌にのせました。その後、女性問題については、紆余曲折を経て 現在に至っています。

 

フロイトから、フロイトの読み直しをしたラカンの理論では、女性性の生来的本質的存在を認めません。男女とも幼児は一つの性、男性性(マスキュリニテイ)から出発し、エディプス・コンプレクス、去勢恐怖の精神ドラマを経てジェンダーを獲得するとします。

 

特にラカンは言語獲得のプロセスにおいて注目すべき理論を展開しています。「父の法」の支配する象徴界(言語、文化、社会)は、特権的なシニフィアン(記号表現)であるファロス(男根)を基軸として形成される。それまで一つであった性はこのとき、主体のファロスとの関係における位置によって差異化される。つまり性の差異化の上に象徴世界は成立していると考えます。

 

この言語獲得後の成長とそれに対する分析は的確だと私は考えています。

勿論最近の発生学では肉体の性差はSRY遺伝子の作用であると認識されているのは、知っています。

女性の自我意識はいつも男性に合わせることによって困難な自己を発達確定させます。ですからシニフィエ(記号内容)が変われば、変化すると考えます。

 

しかし人間のつきつめた精神の根源は性行為の差に発していると私は考えています。男性は母体回帰を存在の出発点であり帰結点としています。なおかつそのために 生命への深い懺悔が男性には存在します。女性から生まれ女性を傷つけると感じる男性の生命があります。それが聖なるものの出発点です。しかし女性にはその感性は、あたかもある如くみえてありません。 

 

女性は自己を傷つけられたという意識があり、しかもその痛みの中から生みだすという意識が存在の始めです。死と直結しなおかつ対極にあります。懺悔という出発があるようで、無いのです。ですから明らかにアルファが違います。男性からすれば、女性ほど扱いにくいものは無いでしょう。長い間社会からも、宗教からも無視され続けてきています。しかし 今の世界には必要な感性 「それ」がそこに存在していると考えています。

 

ですから現実に 人生の苦から逃れようと、「今」修行をして 瞑想の 追体験を「今」しようとすると 社会的にも、精神的にも女性には大変な問題が 起こってくるのです。

 

女性はそこを認識し再度自分の生き方を自然にあわせて感じていく必要があります。

 

 一人一人が感じ 祈るのです。

 女性は無心に 自己の身体を出発点として祈ってみましょう。そう、静にです。

 「静かに」というのは 制止ではありません。困難ではあるけれど認識し修行をして欲しいということです。

無理に苦行をして欲しいと 言ってはいません。

身体のバランスをとり、理解して静に座り瞑想してください。

真言を念誦し(唱えること)、歩き そして また 静に 瞑想してください。

ともに 祈りましょう。