寒くなって きましたね

 

アジアの人々のために 2
 
あちら こちらで クリスマスツリーとサンタクロースの飾り物が見られる時期になりました。
 
皆様いかがおすごしですか?
被災地の皆様 寒くなります、十分暖かくされていますか?
 
もうすぐ メリークリスマスの声が 聞こえますね。幼いころ父の買ってきたクリスマスケーキときらきら光るツリーが、本当に奇麗で クリスマスのプレゼントを楽しみに待っていた記憶があります。
 
前の文章から かれこれ一年も経ってしましました。
その間 「社会的に尼寺を建立すること」を発願して実行していました。「真言尼寺」が出来たので、一度消した文章をまたここに書き換えておきたいと思います。
 
真言尼寺は女性が主体的に祈る場所の社会的な提示です。また 少人数の修行の受け入れも考えています。
この12月5日に辞令の親授式に高野山に行ってまいりました。
 
今私に出来ることは 女性の祈る社会的な空間を 「千年の伝統ある 高野山真言宗」という宗団にも「日本の社会」にも 「アジアの人々」のためにもそして 次の世代の人々のためにも、尼寺を建立することで主張しておくことだと考えたのです。
 
小さな行動ですが、少しでもお話しておけば また誰かが気づいて考えてくれるだろうと思ったのです。
 
また お写経の一段落として 「百万巻菩薩」を建立して 足元には 真言寺に納経され置かれていたすべての お写経を埋蔵いたしました。
 
一息つきましたので、書かせていただきます。
前に一度書いて消してしまった 「日本語について」 と もう一つは「女人禁制について」です。
 
それはもう 随分昔 高校時代のことでした。その先生にあたると 進級が危ういと噂される古典の先生がおられました。生徒の大半は 理系志望でしたから 古典が嫌いでも仕方ないことだろうと思っていましたが、その授業に驚かされました。
 
大学入試一般の古典については 分厚い参考書を一冊買わされて 説明も無く、しかもかなりの分量が定期試験範囲であるにもかかわらず、「自分で読め」で終わりました。
 
授業はなんと二年間も 万葉集だけで、しかもすべて万葉仮名の白文でした。これには困りました。
生徒たちは、期末テストに本気で取り組むか、その先生の設問を捨ててしまうかの選択に迫られたのです。
 
授業は先生の自作プリントだけで行われました。そこには先生の多量の万葉集の研究結果が 書かれて いました。
 
そのうえ 漢文の担当の先生も同じく 白文で 漢文を「昔の人並」に読むことを生徒たちに指導したのです。
 
「国文学が基本だ」というのがその先生がたの主張だったと思います。
 
私は国文学が好きでしたので、興味をもって取り組むことができましたが、理系志望の大半の生徒には大変な苦痛だったと思います。
 
おかげで 万葉の人々の感性と中世の人々の感性との差、万葉仮名とひらがな、カタカナの成り立ちなどを考える機会を与えられました。
 
しかし、その時感じたのは 万葉仮名でも十分こと足りたのではないのだろうか。
「ひらがな」「カタカナ」は 簡単だけれど、何かしら変だという漠然とした疑問でした。
 
その後 私は色々調べたり考えたりしました。アイウエオ表の歴史的展開も調べました。
 
その結果「ひらがな」「カタカナ」は仏教と密接な関係があり、しかも密教を導入して、平安京に遷都するときに、国家政策として作られたものだろうと感じたのでした。
 
その論証は学説にはありません。
 
しかし、いろは歌もアイウエオ表もほとんど同じ時期に 密教僧侶で しかも中国語、サンスクリット語に堪能で、中国語の発音と漢字の成り立ちに詳しい天才的な僧侶または僧侶たちによって創られ、まとめられて、意図して流布されたと考える以外説明がつきません。
 
国家の基盤として密教を導入し、なおかつ 仏教の教えを基本にして選ばれた「漢字」から導きだされる新しい文字「ひらがな」「カタカナ」で国家統一の基礎を固めたのだと考えられます。
 
在俗には「ひらがな」をいろは歌で広め、出家には「カタカナ」をアイウエオで広めたのではないかと考えられるのです。
 
しかも日本語の特徴は、多言語を自在に取り込むことができます。
 
言い換えれば、多言語を 過去に多量に取り込む必要があり、そのように文法を統一したのではないかと思えるのです。
 
その結果私は 「いろは歌は弘法大師によってつくられたものだ」という 伝承に一理あると思えたのでした。
 
そして その基礎になったヤマト言葉は ドラビダ語族に属するのではないかと私は考えています。そうすると 熊本県の菊池の巨石や奈良の飛鳥の巨石の意味は簡単に解ります。
 
日本語はさまざまな「言葉の寄せ集め」で出来ており、また さまざまな言語を取り込むようにできていますが、その底辺を流れる力は 平安京の国家統一の基礎まで遡ることになると思うのです。
 
つまり いろは歌もアイウエオも仏教思想―限定すれば密教思想であることは間違いないと考えています。ですから 「あいうえお」を 使って考える人はみな 極言すれば 「密教徒」となると 考えているのです。
 
日本では日本語ですが、もちろん日本でも 観光や仕事、 公共の場においては 当然英語やその他の外国語が必須であるのは 間違いありません。
 
私の場合は 父の仕事の関係で、英語とフランス語がいつも そばにありました。
大学ではドイツ語も選択しました。ローマ法の講義ではラテン語も練習しました。
 
ロシア語も講義に出席してみました。タイに行く前はタイ語、インドに行く前はヒンディー語、中国に行く前は北京語、チベットに行く前はチベット語、イタリアに行く前はイタリア語などなど触れてみました。
 
仏教を学ぶ初めには サンスクリット語、京都では 坂井榮信先生から梵字(悉曇)も学びました。
 
そして 探し出したのは 日本人の心の底辺と日本語の中に眠るアジア全域から文化として日本に取り込んだ日本独自の文化「日本仏教―日本密教」でした。 
 
しかし この日本語における仏教理論の土壌は 新しいスローガンによって戦前失敗しています。
 
つまり戦前の日本における 「八紘一宇」の思想の原型と軍部の暴走の責任は 仏教とその言語操作にあるのではないかと考えます。
 
仏教的な政治スローガンを掲げれば 対外的には独裁の温床になります。日本語に潜在化していますから、誰もそれが密教理論であると気づきません。軍部から京都学派の西田哲学の八紘為宇が利用されたと考えられています。
 
「八紘一宇」は 表面上純粋で 善意に溢れているように感じます。 また これこそ真理と感じさせる力があります。「レイキ」はその一例です。
 
しかしそれをスローガンにするためには、戦前しっかりした「人権の概念」と「政教分離」「信教の自由」の導入が必要だったと思います。
 
明治の廃仏毀釈運動からずっと、仏教教団は災難続きです。それは仏教教団の構造変化が必要とされているからだと思います。釈尊の法―仏法の変革ではありません。新しい大乗教団運営なのです。
 
現在の中国が アジアに横たわる仏教―密教の土壌を理解せず、アジア政策をとれば、戦前の日本と同じ 過ちを犯します。
 
誰も望んでいないのに、武力が動くのです。特にチベット問題の解決方法は 今のところ正しい方向ではないと考えています。ダライ・ラマの発言は高度に政治的にみえますが、政治的ではありません。
 
ダライ・ラマは高度の自治のチベットに早急に帰るべきだと考えています。そして新しいチベットと新教団組織を早急に構築する必要があると思っているのです。
 
それはチベットの経済発展とは別の問題なのです。
 
日本に 今 言われている「アジアの共生」(「八紘一宇」と同じ概念を共有している)をスローガンとして もしも掲げるならば、権利と義務そして人権と政教分離の概念を「全世界」で共有する必要があります。
 
民主主義と対抗するほど 考えられ、練られたアジア独自の共生理論は ないのです。
 
アジアの底辺に眠るのは仏教の土壌です。仏教は基本的に政治には無色です。
 
ですから どのようにでも言語操作され利用されてしまうことを意味しています。つまりアジアは容易に独裁になってしまうことを意味しているのです。
 
多くの日本人が戦争反対でありながら、一部の人により参戦に踏み込んでしまう「心の言語操作」です。戦争反対を叫んでいた人が、戦争犯罪人になる矛盾です。
 
しかし「密教的世界観」と「世界の人々の相互理解」と「統一された一定の経済言語」は アラブ世界を含むすべての世界観を具現していく可能性を秘めています。
 
次の地球には「密教的世界観」と「民主主義―基本的人権の保障」と「経済」が必要であることを、敗戦を経験した日本がアジア世界に伝えるべきなのです。
 
それは地球規模で 必要とされています。日本は中国から仏教を学んでいます。ですから 中国の人々の幸福とチベットの人々の幸福そしてアジアの人々の幸福を 心から祈っています。
 
日本でも チベットと同じ仏教政治制度を 取り入れて統治しようとした時期があります。
それは 特に奈良から平安に遷都される動乱の時期です。
 
あの有名な「道鏡の事件」に象徴される一連の動きです。
 
743年(天平15年)聖武天皇は 恭仁京遷都をします。これは「続日本紀」に詳しく書かれています。
このとき 国分寺(金光明四天王護国之寺)・国分尼寺(法華滅罪之寺)の造営という事業が始まります。
また盧舎那仏の造立を宣言ました。その為743年末までに恭仁京の造営は未完のまま中止されます。反対を押し切る形で 難波の宮遷都をしようと動きますが、唯一の皇子 安積親王が亡くなります。
万葉集に 安積親王を歌った歌があります。
 
745年平城京に還都します。
 
そして749年(天平21年)1月聖武天皇は行基から菩薩戒を受け出家してしまいます。
天皇の出家はこれが初めてのことです。実質これは天皇の位を退き太上天皇となることを意味していました。
 
曾祖父天武天皇は 自らを「現人神」として国家機能を創ります。
 
聖武天皇は その上に、仏を位置付けたのです。
 
律令国家の最高位に神と仏を置き習合を考えたことになります。その年の7月阿倍内親王は即位し孝謙天皇となります。阿倍内親王は女性で初めて立皇子された女性天皇―孝謙天皇です。
 
母は光明皇后で 初めて 臣下から皇后になられた方です。
 
その年11月には 八幡大神が 九州を発ち12月に京に到着します。
宇佐八幡神は宣託を下す神として著名で 藤原広嗣の乱以来中央との結びつきを得て、神官は僧形です。医療にもかかわり、ここの禰宜尼(女性の神官)が、天皇と同じ紫の輿に乗って 東大寺の大仏を拝したという 記録が残っています。
 
752年大仏開眼が行われます。
 
754年来日した鑑真が東大寺の戒壇で、聖武・光明・孝謙に菩薩戒を授けます。
 
聖武亡きあと恵美押勝の乱を経て淳仁天皇となり、また孝謙太上天皇が再度称徳天皇として、道鏡との政権時代をつくるのです。
 
称徳天皇は太上大臣禅師道鏡を法王とします。法王は天皇に匹敵する地位で、神である天皇が出家し、出家した太上天皇が再び神として天皇となり、出家した者が、天皇に準じた地位に上ることになります。その為立皇太子なしに事実上の天皇―法王になる道を創ったとも考えられます。
 
ここに律令国家の神々の統一が図られます。重視されたのが、伊勢神宮と宇佐八幡で、このとき以来あいつで、神宮寺、神護寺が設定され、神々への位階の授与、神封の設定が行われて、神の頂点である天皇の下に序列化します。神と仏の混交です。
 
年号も、天平神護・神護景雲とし、貨幣も「神功開宝」を発行します。
同時に 寺社を除いて一切の墾田私有を禁じたのです。
 
この事実は まさに律令国家を寺社中心の制度に変革させるものでした。ついで「道鏡を天皇にしたならば天下は太平になろうと宇佐八幡の神託があった」と報告されます。しかしこの計画は有名な和気清痲呂の宇佐八幡の宣託で 排除されます。
 
称徳天皇の死後白壁王が立太子され、光仁天皇となります。
 
女帝は以後千年のあいだありません。
1629年の明正天皇が次の女帝です。この事件が 人々にどれほどの衝撃を与えたか容易に想像できます。
 
また光仁天皇により初めて、天武天皇を始祖としない天皇が 誕生したのです。しかも62歳の高齢で、臣下からの異例の即位でした。
 
次に立太子したのは山部親王で、母(高野新笠)は百済(韓国)からの渡来人の血をひき、異例中の異例でしたが、そのため新しい都と新しい政治を考えることが、出来たのではないでしょうか。
 
それが、桓武天皇です。律令政治は着々と根付いていきます。
桓武天皇は784年長岡京へ遷都次いで794年平安京へ遷都します。
 
今の京都です。そこに導入されたのが、密教でした。まさに聖武天皇の考えた大毘盧舎那仏による精神的国家統治と大日如来が一致したのです。
 
 
若き空海は道鏡のあとの日本のために仏教の指導原理を探していたことも事実でしょう。修行はすでに日本でほとんど完成させてから中国に渡ったと 私は考えています。
なぜなら 密教の秘密は求聞持法にあると思えるからです。胎蔵曼荼羅の虚空蔵院に示すごとくです。
 
桓武天皇は京都の北に天台密教、東寺と西寺を真言密教、南は南山(高野山)で奈良(平城京)を挟んで囲みます。
 
平安京の中には、寺社は一切ありません。東寺西寺の密教で締め出したのです。もちろん僧侶は八宗兼学で官僧がおり、しかも官僧は白い衣に身をつつみ、天皇とともに鎮護国家を祈り、神を祭ることを旨としていました。
 
ですから「死」を「穢れ」として「穢れ」に触れることはありませんでした。追善を考えだしたのは「死」を目の前にし、あまりにも哀れと感じた後の僧侶たちです。鎌倉仏教だけではありません、たくさんの僧侶たちがいました。
 
また764年(天平宝字8年)に出された令に、僧徒の山林修行禁止がありました。
しかし天台山も高野山も山林です。
 
そこで新しい都の守りとするために、新しい政策を打ち出しています。
 
女人禁制です。
 
「修行のため女人は、入れない」と禁止すると同時に「血の穢れの思想」を加えて、いままでの母系制度を根底から転換してしまいます。その為 「国分尼寺」は 次々に国分寺の管理下に置かれてしまいます。
 
つまり女人禁制によって母系社会を父系社会にみごと転換させてしまいました。
ここに 律令政治が完成します。
 
道鏡の事件が与えた衝撃は根底から家族制度を変えてしまいました。
 
仏教による神託政治は導入されませんでしたが、聖武天皇と光明皇后の大毘盧舎那構想は弘法大師空海により完成され、日本密教が日本の言語や家族制度を規制してきました。
 
奈良大安寺は大毘盧舎那構想の理論的一大センターでした。そこの僧侶「石淵勤操」に若き弘法大師空海は師事するのです。
 
神と仏が両立しており、かつ中国の恵果阿闍梨の構築された曼荼羅はその時代の長安の世界国家の統一原理を具現しています。
 
「血の穢れ」を導入しても なお見事に「天照皇大神」「女神」が残りました。
その後中国では破仏があり、密教は滅びてしまいます。
 
京都の東寺では「八幡神」が祀られ、いまだに各家々には神棚と仏壇が残り、天照皇大神は家の一番高いところに置かれます。
 
言語と家族制度が密教を地盤に完成したのが平安京―京都―だと私は考えています。
 
現在私たちは 新しい時代に直面しています。日本の家族制度は延々と明治憲法まで家父長制でした。その一番下敷きは「血の穢れ」思想と女人禁制です。同時に聖武天皇と光明皇后の平等な大毘盧舎那如来構想―次に密教の大日如来によって引き継がれたものーです。
 
戦後新しい家族制度のもとで日本は模索しています。価値観の転換がなかなか進まないのです。特に「血の穢れ」思想は千年の間日本にあったのです。鎌倉時代の禅・阿弥陀信仰は女性に手を差し伸べました。
 
そしてまた、明治の先進的な人々は率先して改革しました。
 
特に高野山の僧侶は率先して女人禁制を解くのです。そして新しい研究を次々に発表していきます。数多くの立派な僧侶を排出しています。
 
戒律復興を唱えた人もおられます。しかしそのよって立つ原点は 血の穢れではなく、釈尊の戒律でした。
 
しかし太平洋戦争前後 時代は 逆行し硬直してしまいました。
 
今、時代が逆行しないように 望みます。
 
また 密教の世界観による新しい密教教団理論をチベットは必ず具現できると信じています。
 
イタリアにバチカン市国やサンマリノ共和国があるように、中国にチベット・ウィグルが高度の自治として共存できる時代です。チベット、中国そしてアジアの平和を願っています。