それでは,「愛する」という心の働きは具体的にはどのようなものでしょうか?それは,「受容する」「見守る」「保護する」「ケアする」というような言葉で表現できるものでしょう。これらは愛するということの母性的側面と言っていいかもしれません。

 また,愛する対象が誤った方向に進んでいる場合には心配になります。何とか正しい方向に進んで欲しいと願います。その場合には「諭す」「叱る」「導く」といった行動に結びつくことになります。これらは愛するということの父性的側面と言うことになるでしょう。親が自分の子どもに対して使う心遣いはまさしくこのようなものです。

 ですから,例えば国家や会社などの組織を「愛する」というとき,ともすれば「国家や会社で使われている価値観をそのまま受け入れなくてはいけない」という強制として受け取られてしまう場合がありますが,それは間違った理解というべきです。もし国家や会社などが誤った方向に進んでいると感じているのであれば,正しい方向へと修正できるように努力すべきだと思います。もちろんそれは自分のできる範囲で,ということになりますが。

 また,「愛する」という心の働きは発達の過程で自然に生じてくるものです。それは誰かに教えられたり,経験から学んで身につけるものではなく,私たちが本性として生まれ持っている特質であると言ってよいのではないかと思います。このことは「愛さねばならない」と強制されるようなものではなく,また,「愛そう」と自分の意思で決断するようなものでもないことを意味しています。つまり「愛したい」というのが私たちの心の素直な働きと言ってよいのではないでしょうか。

 環境によっては「愛することができない(愛することを素直に認めることができない)」状態に置かれる場合もあります。青年期の子どもたちのカウンセリングをしていると,「自分は親を親として認めない」「あんな人が自分の親だと思うと悲しい」と訴える子どもたちに出会うことがあります。よくよく話を聴いてみると,そういう発言の裏には,子どもたちがそう言わざるを得ないもっともな事情があるものです。しかし,そう語る子どもたちの表情は硬く,悲しそうであり,怒りも感じられるものです。それはなぜなのか。子どもたちは親を「愛したい」からです。でもそれが色々な状況で妨げられている。愛するという気持ちを素直に認めることができない。だから悲しいのです。

 私たちにとって,「親,友だち,地域の人々,国家,世界の人々」という,私たちを取り巻くすべての人々を「愛したい」というのは発達過程において自然に発生してくる欲求であり,それを素直に認めることができない状態に置かれた場合,強い葛藤に陥ってしまうということになります。重要なことは,まずその「愛したい」という感情を素直に認めることではないでしょうか。そういう意味で「親,友だち,地域の人々,国家,世界の人々」を「愛する」というのは「愛していいんだよ」という許可を与えるものだと言ってもいいかもしれません。

2013.3.10 豊永