記念講演 密教と日本人気質

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平成25年度菊池川流域古代文化研究会 記念講演会
「密教と日本人気質」

(2013年に開催された講演会の内容です。写真入りのPDFはこちら)

講師紹介

 菊池川流域古代文化研究会 常任理事 古閑三博
 
 先ほどまで、知事さんから、菊池川流域の活性化ということについてお話がありましたが、まだまだ具体的に描ききれないところもありました。今後に期待いたします。
 ところで皆さん、我々が、美術館や博物館などを見学したり、密教のお寺にお参りしたりしますと、色々な菩薩があることにお気付きかと思います。特に私が小さい頃から非常に興味を持っていおりましたことは、何でこんなお姿をされているのだろうか、ということでした。
 特に、不動明王は、右手に剣を、左手に羂索を持ち、右眼を見開き左目は半開き、あるいは右眼は天、左目で地を睨み(「天地眼」)、右の歯を上方に、左の歯を下方に向けて出す(利牙上下出相)、厳めしいお姿をしていらっしゃいます。それは、どういう意味があるのだろうかと思っておりました。
 私の場合、自由に行動できる議員という立場でございましたので、奈良や京都あたりを何度となく周りました。そこで、いろいろな仏像たちと巡り会うことができました。その中で分かったことがございました。不動明王、お不動さんの、あの忿怒の形相というのは、密教でいうところの大日如来の教令輪身のお姿を表現したものだということです。教令輪身というのは、私みたいな生意気な奴を、引っ張って行ってでも、少しでもいいから悟りの境地に連れて行ってやろうというお姿ですね。
 また、密教においては、金剛界と胎蔵界という曼荼羅の世界で表したものがありますね。金剛界曼荼羅は、九会曼荼羅1461尊の仏様が、胎蔵界曼荼羅は、12院414尊の仏様がおられることを教えていただきました。今まで見て通りすぎるだけだったのが、非常に興味が湧いてまいりました。勉強してみようという気持ちになりました。そうしますと、いろいろなイメージが湧いてくるものです。向後、どんな心がけて拝観したらいいんだろうかと、どういう基本的な知識が要るのだろうかと、どういう事が大事なのかを勉強させられました。
 そこで、村端先生をご紹介いたします。先生は、熊本県文化財保護審議会の委員でございます。いわゆる八千枚護摩法要を八度もされているお方です。私は、そういう意味でおそらく九州の中でナンバーワンだと思っております。それと同時に、仏教の理論を徹底的に勉強していらっしゃいます。私が知る限りでは、九州、いや全国でもナンバーワンだと思っております。
 そういう先生が私ども文化財保護審議会委員をしていらっしゃいます。そこで、先生にお願いをいたしました。是非今日は、仏像の見方を基本から教えてください、とお願いしたわけです。またご縁がありましたら、皆様のご要望があれば、2回3回と是非先生にお話しをお願いしたいとも考えて
おります。
以上で、村端先生をご紹介いたします。

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記念講演 密教と日本人気質

熊本県文化財保護審議会委員 村端宏映 真言寺住職
 
 ただ今紹介にあずかりました村端です。先日木崎館長より講演を依頼されてどんな話にするか色々考えました。大体いつもは聞いてくださる人のイメージがある程度あって話を組み立てるのですが、今回はなかなか対象がわかりにくい。古閑先生からは仏像の話を簡単でいいからということでしたが、仏像の話も皆さんが興味を持たれて又有意義な話となると工夫が必要です。
 実は私が若い頃タイに留学して現地の僧侶として修業していました。なぜタイに行ったのかといいますと色々と理由があるのですが、その一つとして戒律の勉強と実践と言うのがありました。現在の日本では具足戒が守られてない、色々部派で違いますけど男性は二百五十六、女性は三百六十程度の戒律の項目があるんです。そこでこの戒律のことをよく調べておかないと仏教徒としては非常にまずいと思ったわけなんです。
 日本の主な宗派は大乗仏教系ですが、現在チベットの弾圧など考えて見ますと、日本の仏教界は実に幸せな状態にあります。
 さてここで宗教について考えて見ましょう。世界には原始宗教が多く有りましたが、多くは生贄を捧げる儀礼を持つ自然崇拝または偶像崇拝でした。民族宗教の多くはその名残を残しています。
 そこで現在世界の多くの人々が信ずる三大宗教の性格はまず殺生の禁止、偶像崇拝の禁止等であります。
 人身供養の祭儀は多く見られたことですが、世界宗教の出現、ここで消滅していきます。一つの例ですがインドでお釈迦様の仏塔が建てられるわけですが、それ以前も塔があります。それを発掘しますとよく頭だけの人骨や亀の死骸等が発見されます。仏教以前の人身供養の跡形であります。
 皆さんは多くの仏像を拝んだり、また目にしていることと思いますが、これは偶像ではないのかと思っておいででしょう。そこでこのことをお話しましょう。
 インドのサンチーと言う所に仏塔が有ります。幸いイスラム教徒による破壊を免れた塔ですが、そこの東西南北にレリーフが彫ってありまして、仏陀の一代記があるわけです。具体的には出家、悟り、説法、涅槃等ですが、どこにもお釈迦様らしき人物が表されていないのです。出家は馬の背に傘蓋、悟りは菩提樹、説法は輪宝、涅槃は仏足跡と言うようにです。それはなぜかと言いますと、仏陀が涅槃に入られる前に最後の説法として自灯明、法灯明、つまり自らを洲とし他によらず、法を洲として他によらず、と遺言されたわけです。このことはよく仏教の立場を表しています。自らの判断と行動こそ己の寄る辺であり、仏が説かれた真理こそ己の寄る辺であるということであります。
 その事が仏の像を造らなかった根拠であろうと思われます。仏滅後時が経つと仏教の教えの解釈が様々に分かれ部派に分かれていきます、勿論大乗仏教の芽も萌芽します。西暦一世紀頃には般若経が現れます、次に法華経や維摩経、中期には勝鬘経等、後期は密教が現れます。ここで仏像が現れる経緯ですが、仏教は東に伝播するだけで無く実は西にも伝わっていました。と言うことは西の文化つまりギリシャ文化の影響を受けたということです。パーリー語のミリンダ王の問い、という仏典があります。それはギリシャ人の王メナンドロスと僧ナーガセーナの問答です。また、現在のアフガニスタンに多くの古い仏像が残っているのですが、その中にはギリシャの神々と姿が酷似したものが数多くあります。その事は仏教に何が起きたのか、カンダーラやマツーラに仏像が現れる。つまりはギリシャ文化のアレテーという考えが真理の具体化として仏像を造らせたのだと思われます。真と善と美は存在の徳である、真理は美として表現しうる、と考えたのでしょう。真理を象徴的に表現するそこに仏教図像学の成立を可能にしているのです。仏像は偶像ではなく真理の象徴表現である。このことがその後多くの仏たちを生み出す根拠となったのです。こと密教に於いてはこの事が突き詰められて修業の体系が整えられることとなります。
 わが国では空海が真言宗を立てますが、その思想は四曼荼羅、身口意の三密瑜伽、六大体大説などを主なものとします。
 空海は唐に渡りまして恵果和上から法を受けて日本へ帰るわけですがこの事が日本の文化に多大な影響を与えます。
 日本の仏教受容について正式な記録としては欽明天皇のとき百済から悉達太子像が送られたとあります。仏教受容には様々な問題を抱えながら仏教が日本に定着していきます。蘇我氏と聖徳太子が中心となってこの事業を進めていきます。後に太子の作といわれる三経義疏は後の日本仏教の基本精神たる寄る辺と成ります。造寺は国づくりの根本事業であり大陸の隋に対して文化国家たるを示す威信を掛けた事業だったわけです。
 その後律令国家の建設を急いでいくわけですけれど、なかなか安定せず、聖武天皇になりますと国分寺と国分尼寺を造りますが、それでも国が安定しない、そこで大仏建立の詔を出します。
 大仏の完成をみて受戒の師を招くということになります。そこで鑑真和上が日本へ渡るわけです。唐招提寺の像はあまりに有名ですが、幾度の渡航失敗で盲目となられてもなお法の為と来朝します。そこから日本に戒壇が出来ます。奈良の東大寺と下野の薬師寺、筑紫の観音寺で三大戒壇院です。聖武上皇と光明皇后と孝謙天皇共に受戒します。このことは名実共に日本が仏教国家であるとの宣言でありました。
 当時の僧侶は官僧と隠遁僧がいまして、官僧は白い衣を着て鎮護国家を祈り政の相談を受けていたのです、穢れを嫌い葬儀やお産には立ち会わなかった。
 一方隠遁僧は積極的に民衆の中に入っていきます、黒い衣をつけて。
 孝謙天皇の相談役に道鏡という僧侶がいまして法力と知識共に備わった人であったようですが、宇佐八幡の信託を和気清麻呂が受けたということで道鏡を追放します。当時宇佐八幡の格式は天皇家と同一に扱われていました。
 これら権力抗争や僧侶の影響力の大きさから逃れるため新しい都を遷都しようと桓武天皇は平安京に都を移します。そこには寺は東寺と西寺だけを置き後の寺は都から離れた山に建てるということにしました。後に空海が東寺を任されますが、西寺は行政機関で事務を執る寺であったようです。
 ともかくも遷都して新しい国づくりに入りますが、ここで最澄と空海が現れてきます。最澄は天台宗、空海は真言宗、共に平安の時代を代表する巨星です。
 空海は文字の人でもありました。現在使われているカタカナ平仮名は平安時に出来上がります。五十音は梵語から生まれたものです。そしてこの梵語は聖なる意味と力を秘めた言語であるゆえに信心の対象ともなりました。仏を表すのにこの文字をもちうる。
 日本語を考える上でこの言葉の成立過程を考えなかればなりません。まず縄文語、次に弥生の言語、これは対馬海流に乗って日本に来た人々、多くの遺跡特に甕棺の形状、言語の類似性、比較の上から古代のタミール人がその担いてであろうと思われる。そこでタミール語、次に漢語、そして経典と共に伝わった梵語これらが日本語形成の重要な要素であろうと思います。
 特に日本語の特質は表音文字と表意文字が共に組み合わされて作られていること、これは言語として非常に高度な認識を生む機能を有します。脳生理学者の養老猛司さんの言葉ですが表音は頭頂で表意は側頭葉で理解する、と語っておられます。その事は物事の判断記憶処理が非常に速やかに行われるということです。この言語を作るうえで密教の僧侶が深く関わったことは間違いないことでしょう。
 空海は東寺を賜って鎮護国家と濟世利民の活動に力を注ぎます。そこには仏陀以来の仏の慈悲の実践と密教教義のもつ卓越なる理論と実践に裏打ちされたものでした。空海の見識は今も日本の国家と日本人を無意識から支え続けているのです。
 一般に天台宗から鎌倉の祖師たちは独立したと思われていますが、実は鎌倉の祖師たちは空海の三昧力に多くのインスピレイションを受けてそれぞれの道を切り開きます、それは撒かれた種が花開くように、様々な文献からその事は実証できます。
 明治の廃仏毀釈で多くの寺院が壊されて日本は神国である、そこに帰るべきとの考えで国家をまとめていこうとする動きがありました、それは国家神道なるものです。それは賀茂真淵や本居宣長の国学の影響があるのですが、実は日本の神道なるものは仏教の受け入れと共に純化され精錬され続けてきたものであります。日本人の寛容さは実は曼荼羅の思想に端を発するものです、あらゆる神々や仏が一同に会する曼荼羅世界が日本人の世界観を作り上げています、又総ての生きとし生けるものを平等に観ずる心これも曼荼羅世界の特質です。今当たり前に考えているものの考えはそのままこの世界観が裏側で支えているのです。
 例えば社殿ですがもとはヒモロギなるものに神が宿るという非常に単純なものでした。伊勢神宮の床下祭儀などは心御柱の祭儀であります。又出雲大社の場合は岩根御柱です。元々社殿はなかった、しかし寺院の建立と共にこれも社殿が造られることとなった。神像などは霊であった神を仏像の受容と共に造られることとなった。
 つまりは本地垂迹説を用いて仏と神を習合させ、権現思想を打ち出して日本的宗教観というものを形成してきたのが真実です、この観念の上に私たちは生活しているのです。
 私たちはこれらの年輪の上に今の生活をしている。日本語を通じて、寺社仏閣を通じて仏の力が皆さんに流れ込んでいる。このことを知ってもらいたいのです。日本人の人生観や世界観はこの事なしでは成立しないという事です。
 言葉足らずで皆さんにどれほど理解していただいたかわかりませんが、今日はありがとう御座いました。

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平成25年発行 「菊池川流域古代文化研究会だより第29号」 より


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