ひろしま美術館に寄せて

春の匂いが、もうそこまで来ていますね。真言寺の庭の梅の花もすでにほころんで、「こんにちは」と言っているようです。

先日所用で京都駅に降りた時、たまたま美術館「えき」KYOTOの展示を目にしました。それは「ひろしま美術館」所蔵の作品展でした。

 

広島には何度か足を運び、供養をさせて頂いたことがあります。母の姉も被爆して、一度は命を取り留めておりますが、実家に帰ってから亡くなっております。原爆の悲惨さ悲しさをつぶさに感じます。そこで平和の願いと文化振興をめざした広島の人たちはどんな作品を集めたのだろうかと、ちょっと気になったので立ち寄ることにしたのです。広島美術館は『愛とやすらぎのために』をテーマにフランス印象派を中心に、ロマン派からエコール・ド・パリまでの絵画や彫刻、ヨーロッパ近代美術と明治以降の日本の油彩画が集められていました。

 

展示を見て驚きました。フランス近代美術の歴史を通覧できるというだけではありませんでした。そこに展示されていたのは、私の感じた問題意識とおなじものでした。平和を心から願い、平和への道を模索した人々の願いを端的に表していました。「よくまあ、ここまで一貫して、集めたものだ。」というのが私の実感でした。フランス本国で展示されていた印象派の絵画とは趣を異にしていました。

 

人間の争いに対して

コローの美しい木々の銀灰色は自然が平和の根源なのだとうたっていました。

 

モネの作品もシスレーの作品も 刻々と移り変わる時間が 総てを解決すると 主張していました。

 

この曲がってしまった人間存在と時代は「円錐、円筒、球体」で捕らえなおせと、セザンヌが話しているようでした。

 

主張することではなく「メランコリーが 人々を優しくするのよ」 とエコール・ド・パリの人たちが、語っていました。

 

レオナール・フジタは三連の祭壇画の マリア像のそれぞれの衣装の中に、問題をうめこんでありました。一つの祭壇画であるのにマリアはそれぞれ別の服とマントを着ています。

 

ゴッホの死の2週間前の作品「ドービニーの庭」もありました。穏やかな庭で、小さく女性が描かれています。閉鎖された空間で時は止まり、絶望の黒が死を暗示していました。ゴッホも問題に気づいていますが、遠くで描写されていました。二週間後に彼はピストル自殺します。

 

圧巻はピカソでした。

『手を組む女』と『胸出す女』の作品の前で思わず、「ほー」といってしまいました。よくこの絵二枚を収集したなあと感動すると同時に「ピカソも同じように時代を捉え女性を感じていた」と納得しました。

 

宇宙の中の地球の人間によって創られた現代という時と空間は、この絵画に表現されている通りの葛藤をもっていると思います。時間空間の理解は理性を超え、人間の五官の認識を超えて広がり、曲がり、多次元の表現が必要とされています。縦横高さの空間外から、男性女性の空間を構成して性の内面・外面の矛盾すべてが描き出されています。そして同時にこの絵には希望も描かれていました。

 

このピカソの絵を見たとき、広島の人々は、本当に平和のために懸命に努力をしてきたこと、そして同時に次の時代への「架け橋」を作ろうとしているのだということ、だからそのために、これらの絵画を収集し展示しようとしたのだということを感じ取ることができました。

 

現代の問題の解決の糸口は女性です。女性のもつ独特の現実に対する構成力―産む力と感性ですーそれを大切にすることによって、平和と共存の鍵がうまれると思っています。それは祈りにも通じています。感性と理性そして祈りは同じ点で交差するのです。現代の女性の無意識の中に、真実の道が開かれ、東洋的なアルカイックスマイルのような静かな、祈りの本質が、総ての女性に開かれますよう祈念してやみません。

 

ああそれから話は変わりますが、私は祈るとき衣の下に二部白衣を着用いたしますが、作務衣は着用いたしません。ちょっと白衣は古くてぼろぼろですが・・・・・