京都駅にて

人はみな空間に生きています。空間をそれぞれに創ることは大切なことだと思っています。そこで京都駅で感じたことを書いてみます。

駅はその都市の顔だと思っています。京都駅の建物については、否定的な意見が以前からいろいろ言われてきています。確かにグロテスクで、未完成のようにたくさんの鉄骨が人目にさらされていて、ガラスが多用されており、その上中央には危険な階段と危なっかしいエスカレータまであります。しかも延々と  10階分の高さがあるのです。「もし一人のひとが上でつまずいたら」と考えればかなり恐い設計だと思います。しかも広い空間ではいかにも現代だといわんばかりにアルミパネルはぎらぎらと主張しているではありませんか。古都京都のイメージとは異質なものであるという議論ももっともでしょう。しかし私はこの駅のこのエスカレータが好きなのです。

 

1200年の長きに渡り京都のイメージは平面で整然と区画されていました。この閉鎖された平面のイメージ空間に高さという抜け道を、この新しい駅は演出しています。単なる高さではなく斜めに下まで見える道を作り、鉄骨を見せ付ける事によって、ここを完成させるのはここを通る人だと訴えています。しかも風は自由に四角い網の目を通り、格式と伝統で縛られた平面上で、貴方の存在は旅人として今自由であると語りかけます。

 

一般的に平面の上では、「高い」ということは「崇高なるものである」と人々は価値づけています。仏都京都の駅を人工的に上に登って見ると、風は寺院よりも高く吹きます。では何を崇高と捉えて生きるのかを「高さ」の中で、捉え直さなければ自己を見失うことになります。向かい側の京都タワーとは意味が違うのです。京都タワーも高いのですが、タワーは蝋燭の形をしており、見物客はローソクの中なのです。

 

しかもこの駅の上には眺めが良いレストラン街があります。だから寺院を見下ろすこの空間は食べている間に「今の行いだけが今を創りあげる鍵になるのだ」と無言のうちに教える空間になってしまっています。生きる意味を過去と未来の原点「今」―「食べる」に設定して、うまく空間を創りあげているからです。この空間は、食べることを一番大事なことだと教えます。まかりまちがえば「大変な美食家を育てることになるだろうに」といつも思います。

 

しかし、この駅ビルは1200年の京都の平面上からはみ出した京都を象徴する空間を創りあげたからこそ観光都市として世界遺産として新しい文化を世界に発信できる可能性を象徴しているものになっています。そのようなデザインだと私は結論付けているのです。

話は変わりますが、密教の曼荼羅はもともと立体なのです。