写経について
写経ってなにかな?
写経ってどうするのかな?
梅の花も散り、桜の開花宣言を待つばかりとなり、鳥たちも春の訪れを告げておりますが、なんと今日は 雪が深々と降ってきて、まるで真冬のようでした。
先日、NHK文化センターの新しいパンフレットが出来上がって配られました。
そこで新しく写経と写仏を合わせてお教えする計画をたてて載せてみました。
写経の担当は私なので、写仏に写経を加えましょうというお話があったときに あまり深く考えることもなく「はいはい」とお返事したのですが、考えてみますと 色々な問題を先送りにしたままであったことに気づきました。
真言寺に納経された数は この25年程で 八十八万巻を超えて もうすぐ百万巻になろうとしております。はじめの十万巻は境内で梵焼し、つぎの三十万巻は境内に埋蔵し、また次の三十万巻は境内で梵焼し、現在残りは観音堂境内地に埋蔵しようと考えております。
最近はあまり 納経をお勧めすることが少なくなりましたが、それでも相当な数の方がお写経をされておられます。しかし納経料という決まった額は頂かない方針できました。お写経し、納経して御修行頂くことは有難いことだと考えたからです。
しかし 一巻千円で 本山に納経するべきではないかと言われたことを思いだしました。
また 真言寺の写経のお手本は一行17字になっていないと言われたこともありました。
本山を否定し、写経を軽んじているという誤解を受けては困るので、もう一度 写経をどういう方針にするのか考えてみました。
写経といえばすぐに頭に浮かぶのは筆書きです。
その筆書を初めて私に教えたのは、明治生まれの祖母でした。
古い書法で、祖母が兄たちと並んで 父から教わったように私に教えました。
祖母の大切にしたことは その字が「生きている字」なのか「死んだ字」なのか
ということでした。
学校では 書道教育と音楽教育が盛んで、検定教科書を使うことなく すべて書道専門の先生の手書きの手本でした。
先生は書星会に所属しておられて、手本はすべて浅見喜舟先生の手本でした。書席大会も盛んでした。その後 喜舟先生が亡くなられて、浅見錦龍先生の手本となりました。
高校では 浅見錦龍先生がおられたので書道部に入り、展覧会などに出品しておりました。
初めて般若心経の文字を選んで作品をつくったり、写経をしたりした時期でした。
経の意味も知らず、読み方もままならず、ただ字を写しておりました。しかし それでも仏法に触れている実感が ありました。
ですからその体験から 楷書でも行書でも どのような字でも、 ボールペンでも 鉛筆でもどのような道具でも構わないので、まず 経に触れることが必要であると考えました。とにかく自分で読んで書く必要があると考えたのです。ですから真言寺では「まず唯書け」と指導いたします。次に作法と読み方になります。
しかし写経は古来より独特の方法で書かれてきています。
天平の昔 印刷技術のまだない頃、国家事業としての写経が行われておりました。
各寺院に 蔵経する必要があったからです。もちろん追善のために行われた記録も残っています。
その実態は 正倉院文書の中に探ることができます。正倉院文書の大部分を占めるのは東大寺写経所という古代の役所の業務文書です。写経の予算案、割り当ての充本帳、紙や筆や墨を支給する充紙帳、充筆墨帳、給与や食料を支給する布施帳、食口帳などがあり、しかも中央官庁で廃棄された文書の紙背を利用しているものが、数多く含まれています。
写経所には経師のほか装丁にかかわる人、校正にかかわる人、事務を取り仕切る案主など多くの人が長期にわたり、寝泊まりしながら行われました。筆の速い経師で一日5900字程度、遅い経師が2300字程度です。しかも出来高払いであったことが知られています。誤字脱字脱行は自分で見つけた場合は小刀で削ったと考えられています。
しかし校正段階で見つかると給与から差し引かれ、しかも二回校正が行われおり、校正段階のミスに対する給与の差し引かれた記録も残っています。このような状態の中での「写経」には美しく画数が少なく書きやすく、読みやすくしかも何度も出てくる場合は別の書き方をして間違いを少なくする努力がなされています。そのため特別な文字が使われています。紙面の都合から美しく見える形も独特なものになりました。
また時代を経て行われてきたものに「追善のための写経」、また願経といわれる「願ごとのためにする写経」があります。どの時代の経巻もどの時代の人々もそれぞれ 切実で美しく味わい深いものがあります。
現存する最古の筆跡は聖徳太子の書かれた「法華義疏」の草稿であり、写経事業の歴史に残る最古のものは 天武天皇元年(673年)「始めて川原寺に一切経を写さしむ」が最初と伝えられています。
一行十七字については 中国で五世紀の終わりごろから組織的な写経がおこなわれ、その頃から取り入れられてきたようですが、五世紀前半の写経ではまだ特に定まっていません。
なぜ十七字なのかについての定説はありませんが、偈頌の関係で中央の位置取りが し易かったと考えられています。
そのほか八は偶数の陰、九は奇数の極みで陽であるので、足して陰陽天地一如を表すという説もあります。
また古代の数占いで 一と七を足して八の吉数となる考え方もあるでしょう。
ともあれ 千五百年以上このように書かれてきたのは事実です。
ではなぜ真言寺の手本は十七字を採用しなかったのでしょうか。
それは誰でも、何処でも、どんな道具でも書ける写経で しかも清書された写経はいうまでもなく、練習のために書かれたものでも、すべて[仏典を読み解く修行のための奉納]として納経を受け付けることを目指したからでした。しかも半紙にすべて納めて書けるように考えたために一行十七字にならなかったのでした。
二十五年ほど前までは今ほど写経についての出版はありませんでした。筆以外のボールペンで写経することなど「もってのほか」という状況でした。しかも半紙ではあまりに安価で手軽すぎると考えられていました。
しかし 現在は数々の本が出版されております。半紙の写経用紙も販売されています。そこで現在出版されている写経の本をもう一度集めて検証し、かつその手本を自分で書いてみました。
すると一番売れている本は 子供たちでも書けるように 漢字も写経体では無く、しかもペンでも書くことが出来、字もある程度大きく、意味も一目瞭然というものでした。経典を身近に感じられる、親しみ易く良く出来た本でした。
親しみ深い経典の理解を目指した主張はすでに実現されていました。
真言寺に納経して頂いている方々の中には 何年も毎日何枚も書かれる方がおられます。真言寺の手本だけでなく、市販の写経用紙を使われて丁寧に毛筆で書いて納経される方も多くおられます。
このとき問題であるのは その手本です。何十年のうちに その方々の字は 見事に市販の写経用紙の手本とそっくり同じ文字になっておられました。
また年齢を重ねて 逆に半紙では文字が小さすぎて書きにくいという声もありました。
そこで書道だけに片寄らず、しかも易しく書き続けながら長年仏法を研鑽し続け、御仏に供養するためには 何が必要なのかもう一度考え、仏法を感じ瞑想に入り易いものを手本としてお勧めしたほうがよいのではないかと考えました。
そこで 真言寺の写経の手本はいままでのものに加え、長年つづけられる方には、古来の有名なものを差し上げて字を大きくしようと思います。
またそれとは別に、新しく写仏と写経と瞑想の基礎になる手本をつくることにしました。
以前ヨーロッパの人々のために作ろうとしていたお手本に少し似ています。
その試作が今度のNHK文化講座のパンフレットに載せているものです。
少しづつしかできませんが、一緒に書いていきましょう。