真言尼寺の窓から

奈良仏教を覗いてみよう

 

今日も朝 雪が降っていました。日本中大雪でしたね。
熊本でも、この極寒のために 水道管の破裂があちこちでありました。
それでも 梅のつぼみが 元気に膨らんでいます。
今日は 真言密教の立宗される少し前の時代、奈良時代の終わりの日本仏教について お話しておきたいと思います。
年表の羅列で うんざりされるかもしれません。でも暫くお付き合い下さいね。日本仏教の基礎だと思うのです。
奈良時代の古い古文書に触れたのは、大学時代の日本史概論です。その教授は、三項目の主張をされて、日本史を考えるように学生に指導しておられました。
一、権力との関係を考えてみること。
二、当時のものの考え方を知ること。
三、当時の気風(感覚)を感じること、そのためには、必ず古文書を眺めること。
教材は写真版の古文書(本物は美術館所蔵)でしたが、それでも良く読み取ることが出来ました。すべて手書き毛筆であることは言うまでもありません。平安時代の「円珍度牒」などもありました。
私たちは、奈良時代の仏教については 一般的に 「南都六宗」と中学、高校時代に習います。
しかし「宗」が使われたのは、平安時代の淳和天皇(天長年間)に各宗の教義を一書にまとめて上進するように勅命が下ってからのことで、それまでは「宗」の文字はほとんど使われず「衆」の文字がつかわれていました。
「衆」は集団を意味しており、三論や律を専攻する学団のことです。しかも 宗義書を作成したのは、三論、法相、華厳、律、天台、真言の六宗で、倶舎宗は法相の付宗、成実は三論の付宗とされていました。
南都奈良の大寺は「一寺一衆」ではなく、兼学を建前としていました。それを破ったのは、京都の東寺を唐の青龍寺を模して真言一宗にしてからです。つまり弘仁14年(823年)1月嵯峨天皇に灌頂を授けてのち、東寺を真言宗の根本道場としてからのことなのです。
奈良時代の「衆」は一般的に言われる、三論・法相・華厳・律・倶舎・成実だけではなく、別三論・修多羅・摂論の衆がありました。
「修多羅」の解釈をめぐり色々な解釈があり、「経」を意味しており、「論」をテキストとしたものでは無いのではないかと大筋では言われています。しかし伝来の事情や、その後の経過は不明です。
「摂論」は「摂大乗論」を専攻する学団です。道昭は653年に長安に着き、玄奘三蔵の弟子となり、同じ房に9年の間住んで学業を続けて帰国します。飛鳥の法興寺(飛鳥寺・蘇我氏の寺です)境内に禅院を建て、摂論衆が創置されました。法相宗が唐において成立するのは 玄奘三蔵の弟子「窺基」であり法相宗の開祖は「慈恩大師窺基」ですから、道昭はそれ以前の人となります。道昭の在唐時代は「摂論宗」が盛んでした。
「別三論衆」とはいわゆる三論の第三伝に相当します。第一伝は高句麗の僧慧灌が推古33年(625年)に来朝し、元興寺(法興寺)に住して、「勅に依り講じた」とあります。この場合唐語(中国語)で話されたと考えられます。第二伝は「福亮」を経て「智蔵」が入唐帰朝して法隆寺にて講学します。第三伝が「智蔵」の弟子道慈です。大宝2年(702年)に遣唐執節使粟田真人に随行し入唐して、吉蔵の孫弟子「元康」につて学び吉蔵の「三論玄義」を伝えたと言われます。養老2年(718年)に帰国して大安寺に住します。大安寺流とも言われ、また別三論衆ともいわれます。これは法相衆の第三伝新羅僧の智鳳・智・智雄が大宝三年(703年)に入唐して智周から法相教学を学んだ伝とは別です。年表によっては、区別されずに表記されていたり、無視されていたりするので注意を要します。三論衆は教義を持ちますが、教相判釈を持ちません。諸経の上下をつければ有所得の盲見となると考えます。そこに消極性があるため、衰微していきますが、やはり三論は その伝来のはじめ「最古の勅願寺」として官寺筆頭の時代から今に至るまで「仏教の論」の中核だと思います。
道慈の弟子に善議、またその弟子に勤操(弘法大師空海に法を授けた師)がいます。
この「道慈」帰朝の翌年聖武天皇は、皇太子として初めて政を聴いたとありますし、岡寺の開基「義淵」が僧正として、そのころ長老でありました。義淵の卒後、光明子が皇后となり、その後、飛鳥の大官大寺を遷し造るに古文書に「道慈に勅した」とあります。その後道慈は 護寺鎮国のため、官費をもって「大般若経」を大安寺で転読し、次に大極殿にて最勝王経の講師を務めています。また以前唐においては 仁王般若経を講じています。また「大安寺流記資材帳」に「大般若四処十六会図像一張」「華厳七処九会図像一張」が記され、十代の天皇の奉為、天平14年(742年)造ったと記されていますが、天平14年は「東大寺大仏建立の詔」が発せられる前年に当たります。
また天平感宝元年(749年)の大安寺宛ての勅の原本が奈良国立博物館に現存しており、発願の趣旨は、一切経の転読・講説により、理想の世界を目指すこと、「花厳経をもって本となす」ことが書かれています。
天平勝宝4年(752年)の新羅の王子が大仏を拝した「続日本紀」の記録に「大安寺・東大寺に就きて礼仏す」とあります。大安寺の大仏は三丈(9メートル)脇侍の千手・不空は一丈5尺(4メートル50)とあります。この大仏は画像です。東大寺の大仏の原画では・・と私は考えています。現存してはいません。
また大安寺華厳(大寺華厳)とよばれる華厳経書写事業(7495月7日ー6月7日)もありました。また最初の華厳の講師を務めた新羅の「審祥」は大安寺の僧侶です。一年に二十巻の華厳を講じ、三年にして六十華厳を講じ、天平14年に示寂しました。まさしく別三論です。つまり新しい華厳研究・資料・財務センターです。この大安寺と東大寺との関係は後の平安時代の東寺・西寺の関係あるいは東院・西院といわれる関係に発展し、次に東班、西班といわれるのではないかと私は考えています。東班は修行を司り、西班は寺務を司ると考えられていたのです。これは方位の吉凶と物事の因果に関係するためではないでしょうか。
勤操は十二歳の時大安寺の門に入ります。道慈の弟子「善議」に学ぶのは24歳以後で、「日本後記」によればおおよそ師は54-55歳くらいだったと考えられます。勤操の弟子「願暁」は弘法大師空海の法資「聖宝」に別三論を伝えた法脈があります。
逆に考えれば、聖宝もまた弘法大師空海の後を追いかけて別三論に至ったのではないかと私には思えて仕方ありません。必死で追いかけるとここに至るのです。聖宝は東大寺に東南院を建て三論宗の根本道場とし、元興寺・大安寺の二流を併合します。その後三論は真言宗の中に没していきます。
そして現在の真言宗では三論は完全に忘れ去られてしまいました。しかし法流の形式としては聖宝の流れは延々と残っています。これから真言を学ばれるかたは是非三論をもう一度学んでいただきたいと考えています。
弘法大師「御遺告」の中に「吾後生弟子門徒等、以大安寺可為本寺縁起 第八」があります。この中に「吾が祖師、道慈律師が推古天皇の御願を遂げた寺であり、これによって、吾が大師石淵の贈僧正勤操が、かの寺を本寺とし、その弟子達をして、皆入住せしめたので、吾れもまた、この寺を以って本寺とするから、弟子後生の門徒等も、須くは、大安寺を以って本寺とするがよい」旨が述べられています。弘法大師空海の「勤操大徳影ノ讃」には「吾ガ師」と詠んでいる事実があります。鎌倉時代の凝然の「三国仏教伝通縁起」の中に「道慈、真言ノ法ヲ以ッテ善議・慶俊ニ授ケ、議公コレヲ勤操僧正ニ授ケ、勤操、求聞持ノ法ヲ弘法大師ニ授ク」とあり、後の通説だったことを知ることができます。勤操は律師となり大極殿で最勝王経を講じています。次に少僧都となり、造東寺別当になり、大僧都となり造西寺別当に転じました。示寂は天長4年(827年5月8日)に西寺の北院でのことでした。「元亨釈書」には「石淵寺勤操」とあらわしています。また同書では法華八講会が延暦15年勤操の創めるところで、石淵八講と称したと伝えています。私はこれを法華滅罪の寺(国分尼寺)に配慮したものであったかもしれないと考えています。石淵寺に関しては、永仁六年(1298年)の「西大寺田園目録」の中に「添上郡東六条五里内七段 岩淵寺西辺 、添上郡東六条五里三五坪内一段小 岩淵寺西」の記載があります。ここでは「岩淵寺」となっていますが、時代は鎌倉です。「石淵寺」の古い伝の一つは「今昔物語」の中に、聖武天皇の御代、吉備大臣の逸話として石淵寺の記載があります。女人の霊にたのまれて、墓から砂金を掘り出し、法花経を書写供養したと書かれてあります。ここにも法華滅罪の匂いがあります。
弘法大師空海はこのような別三論(大安寺流)の中で「石淵寺に縁のある勤操大徳」から学んでいたと考えられるのです。
少し長くなり過ぎました。最後まで読んでいただいてありがとうございます。でも「くだらない」などと評価しないで、少し考えて博物館や美術館に足を運んでくださいね。なにしろ古文書と年表とのにらめっこ思索は結構大変な作業だったのですから。また 私が弘法大師空海の後を慕って「求聞持法」に入る前の準備の為に、高野山大学図書館で秘蔵の古文書に触れる機会を与えられなければ、解らなかったことが沢山あります。何百年も経過した手書きの次第書は私に「音ナキ音」を伝えてくれました。それは驚くほど古く、永く高野山に保存されています。快く整理中の資料を見せていただき、ご助言頂いた、そのときの尼僧修道院長さま、図書館長さまにいまでも感謝いたしております。また御伝授頂いた諸先徳にいつも感謝の祈りを捧げております。