真言尼寺の窓から~藤原京を覗いてみよう

奈良仏教以前はどうなっていたんだろう?

 

皆様いかがお過ごしですか?
もう五月も半ばを過ぎてしまいました。「光陰矢の如し」ですね。
庭の鶯が美しい声で季節を告げてくれます。移り変わる季節を眺めながら、被災地の方々のことを思うと心が痛みます。
お元気ですか・・?
日本仏教のこれからの為に、もう少し私の考える昔のお話を加えておきたいと思います。
奈良仏教以前のお話です。日本仏教を考える上でどうしても必要だと考えます。フィクションじゃないかと言わずに考えてみてください。
少し専門的な用語がありますが、簡単に私の考えをお話いたします。良かったらお読み下さい。
真言密教には法を修する為の「次第書」というものがあります。
流派や伝授阿闍梨によってそれぞれ少し違いはありますが、基本は同じです。
その「次第書」の中の一つの項目の中に必ず「神分・祈願」の項目があり、「三密修行之處滅罪生善之砌ナレバ」とあり「日本国中大小神祇普天卒土の権実二類併威光倍層法楽荘厳」とあります。「弘法大師普賢行願皆令満足」のためにも、「有縁無縁諸聖霊等皆成仏道」のためにも祈ることを宣言しています。
その中の一文に「奉為金輪聖皇天長地久、金輪佛頂名 丁、薬師仏名 丁」の文言が必ずはいります。
私は 「なぜ金輪佛頂名と薬師仏名が並ぶのだろうか・・何か変だな、どうしてだろう?」
と考えたのでした。
 
「金輪聖皇」とは「天皇さまのことじゃ」が 古来よりの答えです。
 
金輪聖王とは金輪王と同じで、南都では「きんりんおう」とよみ、北嶺では「こんりんのう」と呼ばれた四輪王の一人で、金の輪宝を感得し全世界を支配する聖王(倶舎論)のことです。王の字を「皇」と書き換えて、天皇陛下の意味を付加したことは十分わかります。
金輪佛頂名は 解りますが、なぜ薬師仏名が並ぶのか理解に苦しみました。
 
そこで私は歴史を紐解くことにしたのでした。
 
調べると国分寺の本尊は、多くが「薬師如来」です。また東寺の本尊も「薬師如来」で金堂におられます。弘法大師空海は 既に金堂が出来上がってから、東寺を預かります。
そして その後 南大門から入れば、金堂の真後ろに当る位置に、金堂の本尊のお働きを 説明し、御仏が働く有様を表現して「講堂」を建設しています。
 
金堂は1486年に全焼し、1603年に復興し、1606年に落慶法要がありました。そのため、比較的新しい建築であるということに気をとられて、薬師如来が古くからあることに注意が行きにくくなっています。
 
しかも「教王護国寺」という寺の名前を東寺に付けています。つまり王(大王)に教え、国を守る寺の内容が「講堂」の「曼荼羅」となれば、なぜ表の本尊が「薬師如来」なのかを考える必要があります。
 
日本に薬師信仰が伝えられたのは 飛鳥時代まで遡ります。法隆寺金堂の銅造薬師如来坐像の光背裏面の銘文に推古15年(607年)に推古(天皇)と厩戸皇子(聖徳太子)により造立されたものとありますが、実際は天武・持統期の製作であることが、通説となっています。また法隆寺は天武・持統期に再建され官寺としての格式を高めています。
では 天武・持統期には 何があったのでしょうか。
 
万葉集に 壬申の年の乱平定まりにし以後の歌「大王は 神にしませば 赤駒の腹這ふ田居を 京師(みやこ)と成しつ」「大王は 神にしませば 水鳥の すだく水沼を 皇都(みやこ)と成しつ」があります。
つまり天武期に政治的な「神」「大王」が誕生し「天皇」の呼称が、誕生したと考える説に賛成です。
また稗田阿礼に帝紀と旧辞の「誦習」を命じ、「古事記」と「日本書紀」が結実します。
 
この時期、天武天皇は神であり大王であるための新しい儀式や制度を模索していたと考えられます。またわが国初の都城である藤原京の造営に着手、飛鳥浄御原令の編纂の開始があり、「天皇」「日本」の号が正式に制度化されていきます。
また同時に、日本書紀に天武9年(680年)天皇は皇后の病気平癒のために薬師寺を建てることを誓い、百人の人々を出家させたとあり、このときすでに天武天皇は深く仏教に帰依されていたことが推察されます。
686年天武天皇は崩御されたため、皇后自ら即位し、その遺志をついで持統天皇が天武天皇の政治を完成させ、薬師寺を完成させます。
 
また法隆寺の薬師如来の建立に わざわざ推古(天皇)と厩戸(聖徳太子)の権威を必要としたのは深い理由があってのことだと思われます。
 
それはまず薬師如来の仏としての働きに注目する必要があります。
薬師如来は日光菩薩、月光菩薩を従えて、菩薩はその働き、如来はその光の本源であると考えられています。つまり薬師如来は「日の本源」です。
しかも阿弥陀如来の浄土は西方に現実に存在し、薬師如来の浄土も東方に現実に存在すると考えられていました。
聖徳太子は 隋に国書を送っています。このときの国書が「隋書」東夷伝にあり、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」の文章があります。
 
この時代には「日の出る東の国」の認識があったのです。
釈尊は過去仏、弥勒菩薩は未来仏、しかし阿弥陀如来も薬師如来も現在の働きを持つ現在仏なのです。
また 日本書紀に 天武天皇は壬申の乱の時、畝傍山麓の神武陵に戦勝祈願をしたことが記されており、その東に皇后の病気平癒を願い薬師寺(本薬師寺)の建立を発願しています。
 
その時代の国の中央である畝傍山の東に薬師瑠璃光浄土を出現させようとしたと考えても何ら不思議はありません。またこの位置は逆に新しく移転した薬師寺の薬師浄土の南大門が畝傍山と考えられることになります。
 
つまり天皇が薬師如来の生まれ変わりで、金輪聖王となれば世界に恐いものは無いことになります。
 
聖徳太子については、特別な太子信仰と伝承があり、山城の秦氏の広隆寺や難波の四天王寺にはじまり、斑鳩の法起寺、中宮寺、飛鳥の橘寺、葛木寺へと広まり、その後 法隆寺が拠点となります。
                                                                                  
様々な伝承がありますが、その一つに 聖徳太子は推古15年に遣隋使の派遣を要請し、小野妹子に隋国衡州の衡山の南、渓谷の麓から3-4里、般若台の門のある寺から、「前世」所持していた法華経を持ち帰るように頼みます。このときの国書が「隋書」東夷伝にあり、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」の有名な文章だというのです。衡山の僧は、妹子を「念禅法師」の使いと認めて、今世の名前を聞き、法華経を渡します。
推古16年に再度小野妹子が隋にわたり翌年帰朝しましたが、そのとき衡山の僧侶から「先年の法華経は旧蔵のものと違っていたが、秋に太子が、青龍の車にのって来て、念禅法師の旧房より、真本をもち帰った」と聞いたという伝承です。
ここでは仏教を導入し国を仏の浄土とするという思想が広く受け入れられてきたことを証明しています。
しかし 前世を「中国の僧侶である」と自分でみとめた太子は あくまで太子としてとどまり、王の位についていないということです。政治権力の象徴としての王と敬うべき仏法を離して示しています。
 
その伝承の上に新しい「大王」を構築するためには「金輪聖王」しかないのではありませんか。
そこで薬師仏の生まれ変わりの「天皇」は日の本源であり、月をも従えると考えたとすれば、それは天武・持統天皇の考えた新しい国家です。西の大国に対して東の大国「日本」の誕生だったはずです。
神仏混交はすでに日本の始めから考えられていたことになります。
 
氏神としての神と統治原理そして倫理・道徳・聖なる道としての仏法です。
 
聖徳太子によって導入された仏法は天武・持統天皇の構想により新しい局面を迎え、聖武天皇・光明皇后を経て新しい理念を加え、戒律を準備し、紆余曲折を経て、弘法大師空海によって完成されたと私は考えています。
 
明治時代の廃仏毀釈は日本の国の根底からの変革を必要としました。ばらばらになった理念と東西の文明の衝突は敗戦により、新しい日本国憲法として再構築されたと考えます。
占領軍により押し付けられた憲法ではありません。戦争反対であった人々が自ら望んで導入した平和憲法なのです。
 
「薬師如来」の歴史をもう一度考えてみて下さい。