虚空蔵菩薩求聞持法について

皆様いかがおすごしですか?

東北の皆様は お元気でしょうか?

今年の桜は 随分早くて 真言尼寺の桜の木は 満開です。
ホトトギスの声も聞こえて 春爛漫の景色です。
 
今日は 私の宗教体験の原点を お話することに致しました。長い間ほとんど語ったことはありません。時々その体験談のちょっとしたことには言及したことはありますが、公にしたことはありません。心の中の原点として仕舞っておいたのです。
 
古い話ですが、その時私は尼僧学院を卒業してもなお自分が宗教を行っていく自信は有りませんでした。
中川善教前官様から灌頂を受け「阿闍梨」となり、密教教理、四度加行、お茶、お花、仏画、詠歌など世の中で尼僧が立って行く方法をお教え頂きましたが、私の疑問は解けていませんでした。
その時私は 在俗に帰れば総て順調で何も問題ありませんでした。家族や周囲の人々には心配をかけましたが、それでも許してくれていました。
 
前官様が「灌頂」の時に「あんたらには 解らんじゃろうがな、びびっと するんじゃ。びびっと な。」法を大切にしなさいという意味のことを 言っておられました。「びびっと・・・?変な言葉だなあ」と私は思いました。確かに解らなかったのです。
私は これを知る為には どうしても 弘法大師が行ったと伝えられている「虚空蔵菩薩求聞持法」をするしかないと 思い込んでいました。
 
準備万端整えるために まず、行を経験された田中千秋先生にお伺いいたしました。女性にお堂を開いてくれるところは 奈良の宝寿院さんしかないのではないか、また持って入る物で是非必要な物と「行中」気をつけることなどでした。
 
次に高野山大学の図書館長様に 高野山に残る次第書を見せて頂きたいと申しあげました。
「本当に行うと言うなら許可しよう」とおっしゃられて 高野山に残る整理中の古い求聞持法の次第書総てに目を通すことができました。全部を写しとることは時間の関係があり不可能でした。そこで私は三編を選んで写し、持ち帰りました。その一編「常喜院 明仁」の次第には 田中千秋先生の走り書きが書き込まれていました。古い次第を先生も調べられた事が解かりました。先生も必死で取り組まれて証拠を残しておられました。
 
私は 多くの次第書の中から二つの系統の次第があることに気が付きました。大師の入唐以前の伝によるものと、入唐後の伝によるものです。それが二つとも高野山大学の図書館に残っていました。
 
それを比較参照しながら、今度は四国の師僧三井英光先生の下に伝授を願い出ました。三井先生は「まず黙ってこれを写しなさい」と言われて 先生所伝の「求聞持秘法」次に「覚鑁上人」の名が連なっているもの「天徳院道場で伝授されたもの」を神宮寺道場で座したまま黙って写し取りました。次にその後伝授と説明があり、宝寿院さんには先生から「電話をしておきましょう。」と約束されて行の準備が終わりました。
 
その後入堂する前にお堂の下見に行く段取りをして薫森御住職様より「電話線一本だけは引いてあるが緊急連絡用であること、山上の明かりと食事、着替えなどはすべて自分で背負って登ること。プロパンガスが二本持ち上がってあるが、一本は前の行者の残りですぐ切れるため、切れたら必ず自分で背負って持ち上がること。護持費用としての使用料が掛かること」の注意と助言ならびに「自分の足で道場を確かめて来ることが必要」と伝えられました。「いつもなら自分が道案内するが、今回は急用で行けないから道順を教えるから自分一人で行きなさい」と言われました。獣道の山を一時間ほどよじ登るとそのお堂はありました。なにしろ無我夢中であった私は何でも「はい」とお答えして何とか道に迷いながらもお堂に登り着き入堂することが決まったのでした。後で考えると御住職さまから試されていたのかも知れないと思い当たりました。プロパンガスはあまりに重いので、なるべく使わない方針で食事は一度、本尊さまと鎮守さまのお給仕のあと、半分調理済みの玄米であれば50日間プロパン半分以下で使用可能と考えました。入堂する前に再度また薫森大僧正さまから伝授とご助言をお受けいたしました。御助言は大変役立つものでした。本当に有り難く今でも感謝いたしております。
 
「求聞持」は無理ではないかと皆から言われました。求聞持法は古来より荒行とされて、途中亡くなった方々、挫折された方々、発狂された方々の話はよく耳にしました。日数は50-100日で、虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えるというものです。日本の有名な行場は数箇所しかありません。本堂の建て方、場所、本尊の向き、行者の向きなど決め事があります。しかも満願の日は「日蝕または月蝕」の日と決められています。しかし私は必死でありました。沢山の仏の導きに会いながらそれでも何とか入堂できたのです。
 
ここに古いメモが残っています。もう焼き捨てようと考えています。
 
1983年4月21日 入堂
  22日 雨ごうごうと音を立て風吹き雨降る 3:30 起床  
      4:00-5:00 不動法 このころ私は毎日不動法を修していました。
    午前清掃 12:00-21:00 開白とあり かなりの時間を要したことが解ります。
  23日 4:00 二座目     13:00 三座目
  24日 4:30 四座目     14:00 五座目
   とあります。あとは同じペースで拝み終えました。
  28日 腹痛で痛みをこらえながら行う。激痛でした。痛みは自然に消えました。
5月4日 この日には「疲れた あきた もう駄目だ」などと書いてあります。唱えかたに限界を感じていたのです。
5月7日 「唱え方が決まった」と書いてあります。
5月8日 本堂まで下山 このとき本尊の御簾を上げたまま下山しようとすると、なんとまるで自動シャッターのように「御簾が下りて びっくりした」と書いています。本尊は三井先生がおっしゃったように 行法以外は白い布を掛けておく行者の秘仏板本尊が本義(本儀)である事を知りました。
このころの記述に 「20日以上風呂に入っていないのに 汚れた気がしない。散るはずのカヤの枝の柄香呂が 水も無いのに青々としたまま枯れない。」の記述があります。カヤの枝はそのまま枯れずに成満し記念に持ち返りました。勿論他にも様々なことが記されています。
6月4日 86座目から 「近くで工事が始まって困る」と書かれています。
 
実は86座目から 拝み始めるとすぐ「ブーン」という音がし始めていました。山奥では 木を伐採するしかこんな音はしない、困ったと考えていたのです。
ところが日を追ってその音は大きくなり、とうとう夜になっても続いたため、初めてこれは真言と感応して山々が音を立てているのを知ったのでした。
過去の諸伝は正しく本当でした。
 
6月9日 97座目 「突然音が止む するとすっと瞑想に入ることが出来る」とあり、このとき 真言は宇宙に感応し流星を引き寄せることを知ったのです。
6月11日 日蝕の日に結願し、下山しました。曇り空でしたが、なんと金星の場所だけドーナツの穴のようになって光輝いていました。まだ空は曇っている。まだまだ頑張ろうと考えて下山したのです。
これらの経験から「求聞持法」を完全に成満させるにためには、海の側の洞窟しかないと考えています。流星はすぐ側まで引き寄せられるため谷は危険だと考えます。しかし真言を習得するには谷が必要です。
朝日新聞の記者さんから取材を受け、ありのままを語ったら、その後の新聞記事に
「孤独な中で幻聴、腹痛などに悩まされながら、求聞持法の修行を成満した。」と書かれて
しまったので それ以来「幻聴」と言われると非常に心外なので、何か聞かれるたびに
「そうね 飛べると思ったけど 飛べなかったわね」と茶化して答えることにしたのです。
またその記事の最後に「無理ではないかと思ったが、よく頑張り通した。男性でも途中で
投げ出すほどの荒行で、発狂した例もあるのに感心している。」という御住職のほめ言葉と
全く理解されず、余りに誤解され、馬鹿にされるため、極秘にしたこの宗教体験が私の後
の活動の原点です。この経験が私を宗教以外の道に進むことを許しませんでした。
 
人間の言語活動は想像以上に素晴らしいものです。
 
誤解され そしられ日常生活がままならない程嫌がらせを受け続けたこともあります。
それでもなお仏法は世界の為に必要だと考えています。密教は虚空蔵に出でて虚空蔵に
帰り、総ては縁起となり、空であり言語を超え言語と ともにあります。この大切な法を
後世に残し密教の法を残す必要があります。
 
また宝寿院の求聞持堂は人里離れて山中にあり、しかも谷であるため真言を唱える十分
な条件を備えています。このお堂が守られますよう祈念いたしております。
一般のお堂でいくら修行しても行果は得られないのではないでしょうか。勿論それなりの
徳を積むことは出来ると思いますが。
 
また本尊の問題ですが、鎌倉期以降はほとんど胎蔵曼荼羅の虚空蔵院の仏となっており、
剣を持ち、理論上は正しいのですが、一番感応しやすいのは 三井先生がおっしゃって
私に示された光の筋のある板本尊だと思います。すでにこの本尊はどこの行場でも無く
なってしまっています。
 
私の二回目の求聞持は真言寺道場で行いました。皆様にお配りしたコピーの切れ端が
残っています。「星に祈りを」の題でした。「12月24日が日蝕に当たり、九州が世界で
一番 最初に欠け始めるため その日を結願に当て 11月4日より拝み始めています。」
と書かれています。しかしこの行は「真言寺の皆様への回向のため」行ったものでした。
ですから最初の経験が無ければ出来なかったと考えています。このとき1992年12月
24日は晴れていて満天の星空でした。この結願の座で突然私の手の甲から血がしたたり
落ちました。手に傷は有りませんでした。ここは昔隠れキリシタンの里でした。
 
三回目もやはり「真言尼寺の準備回向のため」行いました。今度は結願を皆既月蝕に
当ててあります。この座もやはり最初の経験が無ければ出来なかったと考えています。
2007年8月28日は快晴で満天の星空のもと最後の座を終え、お堂から皆既月蝕を
眺めていました。
 
求聞持法の本義(本儀)から考えるならば、やはり自行のためが一番良いと
考えます。感応の仕方に問題があるのです。
 
これから祈りを知る人々のために、また仏法に触れてもなお「お布施さえ多額ならば」と
か「お金で何でも出来る」と考える無謀な人々のために 一生を費やして仏法護持を
考えた尼僧がいることを理解して頂ければ幸いです。
 
今回観音堂の脇侍を代えさせて頂ました。また別に千手観音を開示いたします。
後進の行者の罪業消滅、行果を得、菩提を加持するためです。
 
ドイツからお手紙を頂きましたが、私は建築家ではありませんから何もお答えできないで
しょう。写仏の弟子が今育っています。いつか彼らがドイツに御仏を運んでくれると
信じています。
どうぞ言語[a]を大切にされてください。
世界で仏法が護持され、総ての宗教が戦わず、戦いの名目に使われず、人々が平和で暮らしやすい世界が訪れることを祈念して止みません。