LDN通信 平成27年6月号

おおよそ人の関心事は、現実として認識される。人の数ほど認識は様々な様相を呈する。それは個々人の人生の意味であり、譲れぬ価値だったりする。ここで問題なのは、それは真実にもとずく意味や価値ではなくとも既に存在する歴然とした存在意義なのである。
現実と言う世界は実に矛盾と葛藤に満ちている。生と死の狭間、得ることと失う事の狭間、愛と憎しみの狭間、これらの狭間で人は終わらぬ夜を過ごす。
どうしても人は己の意とする意味を人生に求め、あるいは求めさせられ、真実からは遠ざかる。
人は様々な脚本を描いて、それを演じる。現実と語る自分の脚本を演じ続ける。真実は行いの因果性であっても、人は己の欲求の実現に意味を見出す。生きると言う事は、様々な葛藤を背負い込むことであり、燃え盛る不満の炎の中で身を焼く事である。
そこから恨み、悲しみ、嫉妬や羨望等が渦巻きだすのである。
一度己の脚本を自我に引き出し、分析して、再評価を与え、修正して、統合していく必要がある。
己の人格に眠る、行動の動機、存在の動機は意識されないまま運命を構成し続ける。
賢く生きるには、この事をよく自覚して己を観察してパターンを見出す事である。
そこから真実にもとずく世界観や人生観の構築が容易になる。