LDN通信 平成27年8月号

物事は様々な条件の元に成立していると共に様々な意味を含んで存在している。人は己の関わり方においてそれを捕え意味を付加して、それを物事の存在意義であると認識する。
己の存在意義においても、それは客観的事実にもとづいて判断していると思っているのだが、実は己の都合上の問題である事が多い。
たとえば嫌いだから悪いことである。好きだから良い事である。と言うような己の感情の折り合いのために正義の旗をたなびかせる事がよくある。
普遍的価値や絶対的意味を求める事はなかなか難しい。己の人格的習性を超えて哲学することは古より多く試みられて幾多の思想を生みだし文化を創造してきた。
人間のこの思考の性向は豊かな世界を創ると共に悲惨な争いを生みだした。
賢哲の関心事は最終的には絶対なるものとの出会いであり、体感であった。
思考において雑多に見える現象を整理して法則を見出し、この法則の背後にある絶対的意志又は精神を感じる。これが人間の思考の高まりであり人の霊性である。
祈りを持つ事は人間であることであり、思考の深まりを喜ぶ事は人の人たる所以である。
豊かな感性と深い思考、清らかな祈りに満ちる事は人としての最大の喜びである。
己の豊かな人格をあじあう人は実に賢明な人生を歩いていると言える。その幹からは常に新しい果実が時とともに実るからである。