LDN通信 平成27年12月号

人間であるがゆえに人は己の思考に縛られ、己の言葉に支配される。考えると言う事は最大の武器であるが、又己を傷つける刃でもある。
より整えられた観念は己を自由にして喜びをもたらす。一方で混乱した観念は己をいともたやすく破壊へと導く。
複雑に思える人生も実は生と死の狭間のいくばくかの時間と経験にすぎない。心の模様も複雑に思えるがその機能はいたって単純である。
多くの要素からなると思える人格も単純な経験の累積にすぎない。
存在における論理構造もいたって明快である。仏教における空の論理は存在を説明するうえでは最も難解ではあるが、思考のたどり着けない論理ではない。
一度立ち止まって己を点検してみる、己の観念を整理してみる。そこに大きな問題と思えた人生の様々な課題が実に簡単にできている事に気がつく。
心を静めて心を覗く、禅定の中で己を発見する。あらゆる呪縛から離れる術がここにある。
愚痴多い人生に智慧が生まれる、不幸と思えた己が最大の幸福者であったと言う発見、そんな奇跡が起きる。無価値なものと捨ておいたもの事の真実なる価値の復権がある。
喧騒の中にない安楽と静けさ喜び存在の意味それらがここにはある。
世界の賢者の中で深く沈思する習慣の無い人はいまだかつていない。