LDN通信 2017年2月号

人格を磨く事に喜びを見出し、自戒する事に心を定め、深く思索することを常の行いとする。
彼を人は賢者と呼ぶ。
世界の道理と真理は変わらず、ただ人の理解の何たるかが運命を紡ぎだす。
偏と見を離れ中道に己を見出し、善縁果報を得る。
縁起は生起の法あり滅の法あり、諸の存在は縁起である。自性を持たない実体を持たない、寄りて集まり生じている物事である。
己の身も感覚も概念も苦楽も心惹かれる事も判断も、それに対応する外界の物事も、総て寄りて集まるものである。
人は多くの物事に執着を起こし、断定して、争いに浮身を宿し、苦苦多く、安楽無く日々を過ごす。
この身とこの心は苦の集まるところである。
この身の常ならざるを観察してこの身に安楽を求めず、心に快を求めることから離れ、
己の存在から実体幻想を消し去り、縛から離れ住する。
白浄の月は虚空と同体にして、慈悲の光は満天を包む。
菩薩は自戒の衣を身に着け、三界に方便を垂れる。
自ら誓いを起こし、仏に帰依して、法を尊び、仏の眷属たるを喜び修行の時を過ごす。
この安楽は何事にも代えがたい。