シューベルトについて
皆様いかがお過ごしでしょうか。
今日はシューベルトについてお話しさせていただきます。 先日 横堀明美さんのコンサートがありました。
5月27日は、お不動様縁日と重なりますので、皆様にお知らせすることなく、
私一人東京でお不動様を祈り、夕方にコンサートに行きました。
横堀さんの音を聴かせて頂いて、シューベルトの意図した音が出ていたと感じることが出来ましたのでここに私の考えるシューベルトのお話しを書かせていただきます。
シューベルトの生きた時代、時代は大きく動いており、ベートーヴェンも生きていました。
楽器はバロック音楽の花形バイオリンからピアノに移り始めており、
フランス革命以降は王侯貴族や教会のための音楽ではなく、市民階級のための音楽が生まれました。
食事が美味しく感じられる素敵な音楽ではない、教会の荘厳・霊的な威厳を感じさせる音楽以外の音楽です。
コンサートホールが建てられて、オーケストラとピアノが後にロマン派の音楽を代表するようになりました。
ベートーヴェンは交響曲を作り、いまも年末の第九は日本でこよなく愛されております。
ベートーヴェンの方向性は聖なるものを「労働と市民」として、それを「希望」として作曲したのだと私は考えております。第九を聴いて自殺を思いとどまった話しは数多くあります。
それに対してシューベルトはあまり評価されませんでした。
日本でもシューベルトの死因が、あまりにもセンセーショナル過ぎて話題にしたくないという傾向があります。
難しい、重いといった感想でしょうか。
しかしながら人間の実存、絶対的な孤独に向き合った音楽の救いはシューベルトやショパンにあったと考えております。
ショパンも同じものに向き合っていたと考えております。
二人とも「教会の権威から離れた」バッハの後継者であり、日常の中の聖なるものを見つめていたと思えるのです。
シューベルトはリートを確立させました。
リート(芸術歌曲)は人々の中に深く浸透し、民族を自覚させ、後々の民族独立運動の「根本的な力として働いた」ことを感じる人は少ないのではないでしょうか。
シューベルトのピアノの音は叩く一音が蓮華となると考えます。
語弊があるなら、「命」あるいは「道」でしょうか。
その音を出せる人は、伝統的なヨーロッパのピアノ音楽に精通し、教会音楽を理解して、家庭の優しさを感じ、コンサートピアノではない音を出せる人だろうと思うのです。
シューベルトの音楽には魔王もいます。
苦しみもありますが、その中から「命」「聖なるもの」を紡ぎ出していると考えます。
それが世界の民族のそれぞれのリートに変換されたと思われるのです。
話しは変わりますが、例えば、もしもシューベルトが、輪廻転生したとしたら、自分が何故、政治的な民族運動に巻き込まれるのか本人も解らないかもしれません。
また例えば、輪廻転生という枠で考えるなら、ショパンはまた音楽家となって、華麗なる技法を研究されているかもしれませんね。
訳の分からない文章で申し訳なく、キリスト教の方々には失礼と思いますが、例え話しです。
コンサートで扱われた「アルペジオーネソナタ」イ短調D.821もシューベルトの音楽性を端的に現していました。
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の名誉主席チェロ奏者のフランティック・ホスト氏の卓越した技量と川村よしみさんのチェコへの理解から私はプラハの春を思い出してしまいました。
聞き方によっては、古い明治の日本の歌曲の希望と透明感を感じられる演奏でした。
また、高度な演奏であるにもかかわらず、明治の学校の教室の「一つ置かれているオルガン」から歌われる子供たちの天使のような歌声と笑い声を彷彿とさせるのです。
そうなのです「荒城の月」も「花」も「故郷」も明治の学校の洋楽は、シューベルトの音楽性から出発していると感じてしまうのです。
明治の学校音楽の響は日本の「自然を仏の現れ」として感じていた日本人の感性が見事に表現されていると思うのです。
戦後はベートーヴェンに代表されるように聖なる労働です。
戦争で亡くなった方々のために働き続けた人々がいたのです。
今その聖なる労働も消えていく流れにあります。
横堀さんのシューベルトをもっと聴いてもらえるとよいですね
今日はシューベルトについてお話しさせていただきます。 先日 横堀明美さんのコンサートがありました。
5月27日は、お不動様縁日と重なりますので、皆様にお知らせすることなく、
私一人東京でお不動様を祈り、夕方にコンサートに行きました。
横堀さんの音を聴かせて頂いて、シューベルトの意図した音が出ていたと感じることが出来ましたのでここに私の考えるシューベルトのお話しを書かせていただきます。
シューベルトの生きた時代、時代は大きく動いており、ベートーヴェンも生きていました。
楽器はバロック音楽の花形バイオリンからピアノに移り始めており、
フランス革命以降は王侯貴族や教会のための音楽ではなく、市民階級のための音楽が生まれました。
食事が美味しく感じられる素敵な音楽ではない、教会の荘厳・霊的な威厳を感じさせる音楽以外の音楽です。
コンサートホールが建てられて、オーケストラとピアノが後にロマン派の音楽を代表するようになりました。
ベートーヴェンは交響曲を作り、いまも年末の第九は日本でこよなく愛されております。
ベートーヴェンの方向性は聖なるものを「労働と市民」として、それを「希望」として作曲したのだと私は考えております。第九を聴いて自殺を思いとどまった話しは数多くあります。
それに対してシューベルトはあまり評価されませんでした。
日本でもシューベルトの死因が、あまりにもセンセーショナル過ぎて話題にしたくないという傾向があります。
難しい、重いといった感想でしょうか。
しかしながら人間の実存、絶対的な孤独に向き合った音楽の救いはシューベルトやショパンにあったと考えております。
ショパンも同じものに向き合っていたと考えております。
二人とも「教会の権威から離れた」バッハの後継者であり、日常の中の聖なるものを見つめていたと思えるのです。
シューベルトはリートを確立させました。
リート(芸術歌曲)は人々の中に深く浸透し、民族を自覚させ、後々の民族独立運動の「根本的な力として働いた」ことを感じる人は少ないのではないでしょうか。
シューベルトのピアノの音は叩く一音が蓮華となると考えます。
語弊があるなら、「命」あるいは「道」でしょうか。
その音を出せる人は、伝統的なヨーロッパのピアノ音楽に精通し、教会音楽を理解して、家庭の優しさを感じ、コンサートピアノではない音を出せる人だろうと思うのです。
シューベルトの音楽には魔王もいます。
苦しみもありますが、その中から「命」「聖なるもの」を紡ぎ出していると考えます。
それが世界の民族のそれぞれのリートに変換されたと思われるのです。
話しは変わりますが、例えば、もしもシューベルトが、輪廻転生したとしたら、自分が何故、政治的な民族運動に巻き込まれるのか本人も解らないかもしれません。
また例えば、輪廻転生という枠で考えるなら、ショパンはまた音楽家となって、華麗なる技法を研究されているかもしれませんね。
訳の分からない文章で申し訳なく、キリスト教の方々には失礼と思いますが、例え話しです。
コンサートで扱われた「アルペジオーネソナタ」イ短調D.821もシューベルトの音楽性を端的に現していました。
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の名誉主席チェロ奏者のフランティック・ホスト氏の卓越した技量と川村よしみさんのチェコへの理解から私はプラハの春を思い出してしまいました。
聞き方によっては、古い明治の日本の歌曲の希望と透明感を感じられる演奏でした。
また、高度な演奏であるにもかかわらず、明治の学校の教室の「一つ置かれているオルガン」から歌われる子供たちの天使のような歌声と笑い声を彷彿とさせるのです。
そうなのです「荒城の月」も「花」も「故郷」も明治の学校の洋楽は、シューベルトの音楽性から出発していると感じてしまうのです。
明治の学校音楽の響は日本の「自然を仏の現れ」として感じていた日本人の感性が見事に表現されていると思うのです。
戦後はベートーヴェンに代表されるように聖なる労働です。
戦争で亡くなった方々のために働き続けた人々がいたのです。
今その聖なる労働も消えていく流れにあります。
横堀さんのシューベルトをもっと聴いてもらえるとよいですね