LDN通信 2017年9月号

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良く整えられた己を依る辺として生きる。
何物にも犯されない豊かな知性こそ己を守るもの、豊かな感性こそダルマを映す鏡。
仏の道はその中にある。
己の行いにこそ涅槃の道がある。悪因悪果、善因善果、善縁を積み重ねて涅槃に至る。
己の善を求めて修学し、善を修めて安心を得る。
静かに思いを巡らせて己の心を鑑みよ。この心に依るべきものはある。
心を乱す生活をしてはならない、粗暴な言葉を吐いてはならない。
如何なる暴力も涅槃の道ではない。
心を専一に生ある総ての存在の安穏を祈る。
そこにこそ道はある。己一人の安寧などはすぐに破れる。
清い祈りを発する、その心がその人の涅槃の道となる。
唯、法を友として黙として歩め、嵐の時も、
日照つく灼熱の日々も、凍り付く冬の厳寒の日も、身に破れた衣をまとうとも、
嘲笑に会おうとも、心に抱く太陽のような菩提心を守って。
わき見をする暇などない、眠りから覚めよ、深い眠りをむさぼるうちに時は過ぎてその身は亡ぶ。
雨と風を避け草座を設けて、己に問え、己は何者かと。菩提樹下の釈迦仏に同座せよ。
釈子の因縁は此処に極まる。
菩提の川は流れ続けて枯れることはない。

LDN通信 2017年8月号

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人は燃え盛る火の中を逃げ惑うかのごとき人生を送る。不確かさとわずかな希望と深い絶望の中で日々を過ごす。
この身は孤独と絶望と満たされぬ思いの源。この身の重き事、身を支えるに足を踏ん張り歯を食い縛り、人生の細き道を歩く。
生の終わりにその死が来るまで、眼暗く光を見ず、耳遠く真理の声は届かず、その手に握り締めるものは砂の如く崩れ去る。
ひもじさに己の善業の種を食い尽くし、善業の果報を受けることすらない。
禽獣の如く欲情に任せて食い漁り、慚愧の心を忘れて吠えかかかる。
罠を仕掛けては獲物を捕らえその果報の赴くところを悟らず。
己の幸福の何たるかを思う心は芽を出さず、ただただ目の前の苦楽だけを思う。
己の楽のために人を陥れ、命を傷つけ、果報の回りに思い至らず。
心暗きものに世界は暗く、眼を閉じたるものはその道は見えず、
耳を塞ぐ者は声を聴かず、喉を塞ぐ者は甘露水を飲まず。
哀れなるかな、無明の輩。
己の欲情をしばし離れよ、仏陀の声を聴け、真理を見よ、
深き眠りから目覚めよ、いや眠りにある己に思いを巡らせ。
大地に撒かれた一粒の麦のように思いを起せよ、我はこれより仏に帰依しようと。

LDN通信 2017年7月号

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仏陀の道は絶えず。祖祖の川として流れ来る。釈迦牟尼仏の遺言に自燈明、法燈明の二法がある。
実に八万四千の法門これあるはひとえにこの遺言のゆえである。
如是我聞の四文字は仏弟子の覚悟と知恵の言葉である。行者の知恵とそれに映し出される仏陀の法がここに転ぜられる。
持戒精進、禅定知恵、頼りとなる己は此処による。ゆめゆめ放逸に時を過ごしてはならない。
己の知恵の完成と仏陀の法の研鑽は一法である。
常に心に仏陀の法を抱き、これを念じ、これを思索し、これを行い、仏の足跡を礼拝して、その道を尊び、また後の人々に道を残す覚悟が必要である。
十善の妙戒は己の真実を明らかにして、人々の心を照らす。
仏の戒はこの十善に納まる。喜び歓喜してこれを受持せよ。
よく願い、よく念じ、よく行え。
人は身の不徳と言葉の不徳と心の不徳において滅びる。人とはそう言うものである。
食を節し、行いに節操を保ち、心を穏やかにして、仏を思念する。
口に陀羅尼を唱え、行いを仏に同参する。
真如は外に去らず一心にある。三界は一心に浮かぶ影。
己を極めるとは、己の在りかを自認すること、他に求めることではない。
唯己を少しでも自覚せよ、己以外に道はない。
人は己以外の事柄に幸福を見出そうとする。己不在の幸福を求める。
世の名声や地位、お金等、それはいかにも光を放つ物に見えるが、実は実に虚しい物である。
心を満たしてはくれない。
静かな場所を選んで、禅定を常とせよ。根源的幸せが訪れる。

LDN通信 2017年6月号

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己の霊性と知性を信じ、思索と瞑想の時を過ごす。如何なる障害も、天与に与えられた人の知性はこれを超え得ると信じて生きる。彼は仏陀の弟子である。
仏の知性と同じものを我は持つと深く信じて修行する、彼は仏の弟子である。燃えるような求道心を持ち、輝く知性を有する、彼は仏の末裔である。
如何なるドグマや偏見をも認めず、それを排してゆく勇気を持つ彼はダルマに愛されるものである。
如何なる人々にも、民族的差別、男女の偏見等、不当な見方を持たない。彼こそ真の道人である。
世界の苦しみを共に感じ、喜びを共に喜ぶ彼は菩薩と呼ばれる。
幾多の文明においても、時代の中でも、争いは常に起こり、人々の苦悩は絶えることが無かった。
その中で苦悩を癒し希望を与えた人々彼らは聖者と呼ばれる。
己の無知と偏見を克服して悟りの岸にたどり着いた人、彼等を阿羅漢と言う。
三衣一鉢を持ち、樹下や洞窟に身を安んじて、只管座禅して生死と涅槃とを共に納める。彼は比丘と呼ばれる。
応供の身とは持戒と法眼を備え説法自在にして、方便巧なること、慈悲の心は充ちて甘露の流れるが如きを言う。
釈迦牟尼仏を又は大応供とも言う。
仏を信じこれを求め、法を求め、頭を地につけて礼拝供養する。その姿は実に神々しい。
想いの中に仏居ます。絶えず仏を念じこれを讃嘆して、合掌供養する。信心の日々は無明を破る。
燃えるような菩提心と輝ける智慧の光において仏を讃嘆供養し奉る。身の行いをもって仏を供養し奉る

LDN通信 2017年5月号

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豊穣の大地によき種を播き、よく育て、よき実をつける。
悪を止め、善を行い、人々の安楽を願う。実に徳ある生活に勤しむ人はよき種をまく人である。
如何なる現象もその原因なくして起こることはない。阿頼耶識の大地に撒いた種が萌芽したものである。
良き農夫は土地を整え良き種を選んでそれを撒く、水を与えて収穫の時を待つ。
優れた行者は心を整え行いを律する。果報を望まず、善行に徹する。
世界の現象は個々の行いの結果である。己の行いを改める。そこに世界が変わる鍵がある。
徳ある人の世界は実に平安である。己の行いの是非を問え。
嘆く前に、涙する前に、己の行為の因果をよく見よ。涙に曇った眼では真理は見えない。
落胆の吐息を吐いては前に進めない。
心を禅定に縛って、深く思念せよ。因果必然の道理を。己は何をなすべきか。
今この時をのがしてはその時が来ない。今のこの時がその時である。
己の善なる行為の中に仏は宿る。三宝は現れる。他に求めることはない。
善を行い、善に住まう。ただそれだけの人生、あとは無常である。
狂おしく善を行い、むさぼる如く徳を積む、あとは無我である。
己の行いに誇りを持て、行いの果報は崩れ去ることはない。
善き行いを修している己をたたえよ、私は仏陀の足跡を見つけたと。
古より幾多の行者が歩いた道、幾多の仏が説いた法、そのただなかに居る己の幸せを感じて生きよ。