LDN通信 2016年2月号

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汝が衣は汝が想念と語りし言葉よりなる。汝の道はその行いの続く処、出会うもの事は己の影、自他の垣根は己の自我の幻想、独り寝は誰も許さず、共に出る息も吸う息も天地の呼吸、眼を閉じて世界を語るもの多し、耳を塞いで音を奏でる者幾多、恥を覚えず善の生起する処を悟らず。
唯己の煩雑な記憶と乱るる感覚に身を任す。
大海の小舟の如く人生の波にもまれ生を危うくし、恐れ故悲しみ多く、心を閉ざし、故に光を見ず。
生の生たるを死の死たるを悟らず。悔恨と羨望に日々を費やす。幾人かの賢者この世に現
て道理を説き、道を示せども耳に逆らい眼を背ける。
死すべきこの身と破るるこの身を養うに情熱を注ぎ、永遠なるダルマを希求せず、ついに老い行く。悲しむべきは己の無明、朝には夕べを思わず、昼には夜の帳を覚らず。生においては死の在るべきを思わず。若さを誇り老いの来るを見ず。富貴と貧困は紙の両面そこに隔たりはなく無常に繰り返す人の定め。
半畳に草座を設けひたすら座禅修行は仏家の習い、身を慎み言葉を明らかにして、清浄に食を乞い、大悲の故に獅子吼するは菩薩の住する処。
衆生も空、法も空、我も空、清浄にして穢れなきを菩薩は生きる。
法は聞くものも無く説くものを無きをもって法は説かれると菩薩は語る。
念念に善を起して善を忘れて生きる。般若は般若と語らず、自然に生起す、アートマンの影を有さず。

LDN通信 2016年1月号

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新年明けまして おめでとうございます。
生きることは常に葛藤に満ちている。しかしこれを除いて時は過ぎゆかない、多くの涙と困惑の中に人生はある。仏との廻り逢いは人の苦しみと混乱の中で出会う光明である。
夏枯れの木々に雨が降り注ぐように、凍える冬に暖炉の明かりがその手を照らすように、仏の慈悲は心を癒す。
いかに荒れたる世間であろうと自暴自棄になってはならない、仏の慈悲はそこにある。いかに困難な出来事が廻り来ようが眼を塞いではならない。その中から智慧の道を学び取る必要がある。
聖なる事とは事象ではなくそれを理解する人格の内容である。その人格が崇高であれば全ては聖なる事となる。いかに聖なる言葉を駆使してもその人格が俗の欲心に充ちて、行いが自愛に縛られているとしたら、語るまでもない。
人はいつ自由の人になるのか、それは一切平等の智慧を得た時である。人は差別の中で苦しみ、その中で行動して、その檻の中で一生を過ごす。
羨望と嫉妬と渇望の人生を送る。それは世界が苦しみを与えるのではなく、己の人格の未熟さゆえの悲劇である。
良く熟慮して存在の本質を見極めなければならない。己の思いこみを離れねばならない。多くの聖典は智慧の道を示し、聖者はそのように生きて、賢者はそのように語った。
世界の悲劇は唯一人の無謀な行い故に起きる。己を見つめ己を見極め、真実に心を集中せよ。そこから己の解放が始まる。

LDN通信 平成27年12月号

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人間であるがゆえに人は己の思考に縛られ、己の言葉に支配される。考えると言う事は最大の武器であるが、又己を傷つける刃でもある。
より整えられた観念は己を自由にして喜びをもたらす。一方で混乱した観念は己をいともたやすく破壊へと導く。
複雑に思える人生も実は生と死の狭間のいくばくかの時間と経験にすぎない。心の模様も複雑に思えるがその機能はいたって単純である。
多くの要素からなると思える人格も単純な経験の累積にすぎない。
存在における論理構造もいたって明快である。仏教における空の論理は存在を説明するうえでは最も難解ではあるが、思考のたどり着けない論理ではない。
一度立ち止まって己を点検してみる、己の観念を整理してみる。そこに大きな問題と思えた人生の様々な課題が実に簡単にできている事に気がつく。
心を静めて心を覗く、禅定の中で己を発見する。あらゆる呪縛から離れる術がここにある。
愚痴多い人生に智慧が生まれる、不幸と思えた己が最大の幸福者であったと言う発見、そんな奇跡が起きる。無価値なものと捨ておいたもの事の真実なる価値の復権がある。
喧騒の中にない安楽と静けさ喜び存在の意味それらがここにはある。
世界の賢者の中で深く沈思する習慣の無い人はいまだかつていない。

LDN通信 平成27年11月号

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思考の極みは普遍を求める事、行動の規範は共同の福祉を実現する事である。
人は差別化の中で己を主張しているがその前提には自我の同一性が必要となる。共に社会を形成している自覚が必要である。
人は孤独である、常に不安である。この世に生まれた時から分離不安を抱えて生きている。
その不安を抑え込みながら生きている、赤ん坊は泣いて己の思いを伝えねばならず伝わらなければ生命の危機すら感じる、そんな存在である。
成人になってもこの不安は常に心に宿り行動を支配する、この故に過度な欲望を起し、嫉妬を抱き、挫折を感じ、愛を希求する。与える事を拒み得る事を望み様々な悩みを抱える。
人の関わりの中では、常に行き違いと誤解が生まれてこの孤独が癒される事はない。
古より賢聖は深い思考の末この孤独と決別を果たした、それは己の生命の根源を求めそれによる癒しを経験した事である。
世界の偉大なる宗教指導者はその事の実現者である。
己の根源にある聖なる大いなる生命、そのものの名は唯一なる神とも法身如来とも呼ばれて来たが、唯一普遍、永遠、無限なる存在である。
それこそ人の存在の癒しに値する、相対を超えた絶対の存在なのである。
人はこの事を自覚しここを拠り所として生活する事が何より好ましい、なぜなら癒しを体験した人格は又人々に多くの癒しを与えるそんな心を得るからである

LDN通信 平成27年10月号

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人は生まれた時に既に死ぬ事が運命づけられている。人は死す存在である。この事は既に多くの物語にも、又事宗教においても最も重要なテーマとして取り扱われてきた。逃れ得ざる運命の絆、そこに歴史を創る力が宿っている。さればこそ後に残す子孫に後の世に文化と文明を伝えねばならない。後に続くものに光と道を、荒れ果てた荒野でなく整えられた道筋を、そのように思うのが人として当然の心遣いである。人々の幸福を祈るのが人の霊性である。細い川筋もやがては大海へと注ぐ、貴方のその生きざまが大海の水と成る。覚悟はよいか、賢哲は己の利己的習性を乗り越えて、そのように語る。
この心は人類を支える真実の柱である。この柱なくしては人の和も発展も雲霧離散する。
何処に生きていようと、何を糧として生きようと、この心を支えとして生きる事が最も尊い、この心に人々は安らぎ新しい生命は育まれる。
古より旅人はこの言葉を頼りとして、羅針盤として航海をしてきた。聖なる声として光として、幾多の聖者はそう語る。
大いなる者の前に人は祈る事を忘れた事がない。世界の偉大なる宗教は大いなる霊性に導かれる事を説く。
祈りの中でしか解決しない事柄は多い、だからこそ人々は祈りを止めないのである。
先祖の祈りは貴方の祈りを支えている、又貴方の祈りが貴方の子供を子孫を後の世を支えるのです。