LDN通信 2017年7月号

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仏陀の道は絶えず。祖祖の川として流れ来る。釈迦牟尼仏の遺言に自燈明、法燈明の二法がある。
実に八万四千の法門これあるはひとえにこの遺言のゆえである。
如是我聞の四文字は仏弟子の覚悟と知恵の言葉である。行者の知恵とそれに映し出される仏陀の法がここに転ぜられる。
持戒精進、禅定知恵、頼りとなる己は此処による。ゆめゆめ放逸に時を過ごしてはならない。
己の知恵の完成と仏陀の法の研鑽は一法である。
常に心に仏陀の法を抱き、これを念じ、これを思索し、これを行い、仏の足跡を礼拝して、その道を尊び、また後の人々に道を残す覚悟が必要である。
十善の妙戒は己の真実を明らかにして、人々の心を照らす。
仏の戒はこの十善に納まる。喜び歓喜してこれを受持せよ。
よく願い、よく念じ、よく行え。
人は身の不徳と言葉の不徳と心の不徳において滅びる。人とはそう言うものである。
食を節し、行いに節操を保ち、心を穏やかにして、仏を思念する。
口に陀羅尼を唱え、行いを仏に同参する。
真如は外に去らず一心にある。三界は一心に浮かぶ影。
己を極めるとは、己の在りかを自認すること、他に求めることではない。
唯己を少しでも自覚せよ、己以外に道はない。
人は己以外の事柄に幸福を見出そうとする。己不在の幸福を求める。
世の名声や地位、お金等、それはいかにも光を放つ物に見えるが、実は実に虚しい物である。
心を満たしてはくれない。
静かな場所を選んで、禅定を常とせよ。根源的幸せが訪れる。

LDN通信 2017年6月号

印刷用画面
己の霊性と知性を信じ、思索と瞑想の時を過ごす。如何なる障害も、天与に与えられた人の知性はこれを超え得ると信じて生きる。彼は仏陀の弟子である。
仏の知性と同じものを我は持つと深く信じて修行する、彼は仏の弟子である。燃えるような求道心を持ち、輝く知性を有する、彼は仏の末裔である。
如何なるドグマや偏見をも認めず、それを排してゆく勇気を持つ彼はダルマに愛されるものである。
如何なる人々にも、民族的差別、男女の偏見等、不当な見方を持たない。彼こそ真の道人である。
世界の苦しみを共に感じ、喜びを共に喜ぶ彼は菩薩と呼ばれる。
幾多の文明においても、時代の中でも、争いは常に起こり、人々の苦悩は絶えることが無かった。
その中で苦悩を癒し希望を与えた人々彼らは聖者と呼ばれる。
己の無知と偏見を克服して悟りの岸にたどり着いた人、彼等を阿羅漢と言う。
三衣一鉢を持ち、樹下や洞窟に身を安んじて、只管座禅して生死と涅槃とを共に納める。彼は比丘と呼ばれる。
応供の身とは持戒と法眼を備え説法自在にして、方便巧なること、慈悲の心は充ちて甘露の流れるが如きを言う。
釈迦牟尼仏を又は大応供とも言う。
仏を信じこれを求め、法を求め、頭を地につけて礼拝供養する。その姿は実に神々しい。
想いの中に仏居ます。絶えず仏を念じこれを讃嘆して、合掌供養する。信心の日々は無明を破る。
燃えるような菩提心と輝ける智慧の光において仏を讃嘆供養し奉る。身の行いをもって仏を供養し奉る