LDN通信 2017年8月号

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人は燃え盛る火の中を逃げ惑うかのごとき人生を送る。不確かさとわずかな希望と深い絶望の中で日々を過ごす。
この身は孤独と絶望と満たされぬ思いの源。この身の重き事、身を支えるに足を踏ん張り歯を食い縛り、人生の細き道を歩く。
生の終わりにその死が来るまで、眼暗く光を見ず、耳遠く真理の声は届かず、その手に握り締めるものは砂の如く崩れ去る。
ひもじさに己の善業の種を食い尽くし、善業の果報を受けることすらない。
禽獣の如く欲情に任せて食い漁り、慚愧の心を忘れて吠えかかかる。
罠を仕掛けては獲物を捕らえその果報の赴くところを悟らず。
己の幸福の何たるかを思う心は芽を出さず、ただただ目の前の苦楽だけを思う。
己の楽のために人を陥れ、命を傷つけ、果報の回りに思い至らず。
心暗きものに世界は暗く、眼を閉じたるものはその道は見えず、
耳を塞ぐ者は声を聴かず、喉を塞ぐ者は甘露水を飲まず。
哀れなるかな、無明の輩。
己の欲情をしばし離れよ、仏陀の声を聴け、真理を見よ、
深き眠りから目覚めよ、いや眠りにある己に思いを巡らせ。
大地に撒かれた一粒の麦のように思いを起せよ、我はこれより仏に帰依しようと。

LDN通信 2017年7月号

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仏陀の道は絶えず。祖祖の川として流れ来る。釈迦牟尼仏の遺言に自燈明、法燈明の二法がある。
実に八万四千の法門これあるはひとえにこの遺言のゆえである。
如是我聞の四文字は仏弟子の覚悟と知恵の言葉である。行者の知恵とそれに映し出される仏陀の法がここに転ぜられる。
持戒精進、禅定知恵、頼りとなる己は此処による。ゆめゆめ放逸に時を過ごしてはならない。
己の知恵の完成と仏陀の法の研鑽は一法である。
常に心に仏陀の法を抱き、これを念じ、これを思索し、これを行い、仏の足跡を礼拝して、その道を尊び、また後の人々に道を残す覚悟が必要である。
十善の妙戒は己の真実を明らかにして、人々の心を照らす。
仏の戒はこの十善に納まる。喜び歓喜してこれを受持せよ。
よく願い、よく念じ、よく行え。
人は身の不徳と言葉の不徳と心の不徳において滅びる。人とはそう言うものである。
食を節し、行いに節操を保ち、心を穏やかにして、仏を思念する。
口に陀羅尼を唱え、行いを仏に同参する。
真如は外に去らず一心にある。三界は一心に浮かぶ影。
己を極めるとは、己の在りかを自認すること、他に求めることではない。
唯己を少しでも自覚せよ、己以外に道はない。
人は己以外の事柄に幸福を見出そうとする。己不在の幸福を求める。
世の名声や地位、お金等、それはいかにも光を放つ物に見えるが、実は実に虚しい物である。
心を満たしてはくれない。
静かな場所を選んで、禅定を常とせよ。根源的幸せが訪れる。