LDN通信 2017年6月号

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己の霊性と知性を信じ、思索と瞑想の時を過ごす。如何なる障害も、天与に与えられた人の知性はこれを超え得ると信じて生きる。彼は仏陀の弟子である。
仏の知性と同じものを我は持つと深く信じて修行する、彼は仏の弟子である。燃えるような求道心を持ち、輝く知性を有する、彼は仏の末裔である。
如何なるドグマや偏見をも認めず、それを排してゆく勇気を持つ彼はダルマに愛されるものである。
如何なる人々にも、民族的差別、男女の偏見等、不当な見方を持たない。彼こそ真の道人である。
世界の苦しみを共に感じ、喜びを共に喜ぶ彼は菩薩と呼ばれる。
幾多の文明においても、時代の中でも、争いは常に起こり、人々の苦悩は絶えることが無かった。
その中で苦悩を癒し希望を与えた人々彼らは聖者と呼ばれる。
己の無知と偏見を克服して悟りの岸にたどり着いた人、彼等を阿羅漢と言う。
三衣一鉢を持ち、樹下や洞窟に身を安んじて、只管座禅して生死と涅槃とを共に納める。彼は比丘と呼ばれる。
応供の身とは持戒と法眼を備え説法自在にして、方便巧なること、慈悲の心は充ちて甘露の流れるが如きを言う。
釈迦牟尼仏を又は大応供とも言う。
仏を信じこれを求め、法を求め、頭を地につけて礼拝供養する。その姿は実に神々しい。
想いの中に仏居ます。絶えず仏を念じこれを讃嘆して、合掌供養する。信心の日々は無明を破る。
燃えるような菩提心と輝ける智慧の光において仏を讃嘆供養し奉る。身の行いをもって仏を供養し奉る

LDN通信 2017年5月号

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豊穣の大地によき種を播き、よく育て、よき実をつける。
悪を止め、善を行い、人々の安楽を願う。実に徳ある生活に勤しむ人はよき種をまく人である。
如何なる現象もその原因なくして起こることはない。阿頼耶識の大地に撒いた種が萌芽したものである。
良き農夫は土地を整え良き種を選んでそれを撒く、水を与えて収穫の時を待つ。
優れた行者は心を整え行いを律する。果報を望まず、善行に徹する。
世界の現象は個々の行いの結果である。己の行いを改める。そこに世界が変わる鍵がある。
徳ある人の世界は実に平安である。己の行いの是非を問え。
嘆く前に、涙する前に、己の行為の因果をよく見よ。涙に曇った眼では真理は見えない。
落胆の吐息を吐いては前に進めない。
心を禅定に縛って、深く思念せよ。因果必然の道理を。己は何をなすべきか。
今この時をのがしてはその時が来ない。今のこの時がその時である。
己の善なる行為の中に仏は宿る。三宝は現れる。他に求めることはない。
善を行い、善に住まう。ただそれだけの人生、あとは無常である。
狂おしく善を行い、むさぼる如く徳を積む、あとは無我である。
己の行いに誇りを持て、行いの果報は崩れ去ることはない。
善き行いを修している己をたたえよ、私は仏陀の足跡を見つけたと。
古より幾多の行者が歩いた道、幾多の仏が説いた法、そのただなかに居る己の幸せを感じて生きよ。

LDN通信 2017年4月号

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悪業を止め、悪縁を離れ、善業を修め、善縁を求める。これが修道である。
およそ人は己の行いの因果の道理に疎く、悪縁を断たず、悪果の実るときに涙に明け暮れる。
精進せよ。己の心は清らかな思いで充ちているか。己は和言を常としているか。行いは粗暴でないか。
如何なる生き方においても、このことが出来ていれば道の人である。
たとい自ら道の人であると吹聴しようとも、行いがその人を決めるものである。
貴方はそこにおいて道を見出していけばよい、誰の評価を気にすることもない。自得するのみ。
仏の道は隠されているものではない。貴方にすでに備わっている。
意清ければ言葉おのずから柔和、言葉優しきとき身の行いは正しく納まる。
この三業清ければその人は道の人である。
朝清水を汲み仏に奉じて香を薫ずることひとしきり、燈明を点じて、仏を讃嘆する。
何気ない日々の行いはその人をつくる。
悪念を抱かず。人々を傷つけず。誰かの助けとなりたいと願う。
その人はすでに仏の眷属である。
手に鍬を持とうが、ペンを持とうが、貴方に道心があれば道は開く、勇気を持って菩提心を鼓舞して生きていけばよい。
それでしか真実の喜びは生まれない。
己の心は幸せの泉である。この心に安楽を求めよ、他に求めてはならない。
他のもの事はやがて崩れ去る。
心に道理を極めて安心立命せよ。
過去の仏仏祖祖もその道を歩まれた。