LDN通信 2016年9月号
不幸にして己の知性と感覚に狂いが生じている場合は、自ら改める他術がない。人は己の知性と感覚を点検して日々過さなくてはならない。より深い理解と洞察が困難を解決へと導き、深い感性が世間に対しての共感を生む。
人は自らの行いにおいて自らを築くのであり、他の何者もそれを成しえない。人は己の存在において、いかなる権力も権威もそれを犯すことはできない。この自然なる権利はいかなる者にも付与された権利であり、いかなる思想信条や経済的利害においても犯さざれる権利である。
人は互いの権利を尊重しつつ、共同の福祉を追求すべき存在である。ここに道徳規範と法規範を備えた社会機構を有する現代社会がある。
世界の主な宗教の有する道徳規範は同根同類である。それが社会的利害の枠組みでいかに変わろうがそれは不変の価値であり意味である。
慣習法にしろ成文法にしろそれは互いの人権を守ることを目的として成立することが最大の目的であらねばならない。
個々人の人権を擁護することがひいては人類の福祉に連なるものだからである。そこで人は真の自由なる人格として責任ある行動が求められる。権利の行使には当然として重い義務が求められる。
そこに踏みとどまって己の行為を律することこそ開かれた人格であり、それを実現する社会こそ我々にとって必要な世界なのである。
人は利害の対立において他の生存の権利をいとも簡単に犯しやすい、他の人々が血を流す姿のその時は己がその痛みを感じなければならない。己の喜びは他に分け与えてともに喜ぶ。そこに人間としての霊性がある。
人は自らの行いにおいて自らを築くのであり、他の何者もそれを成しえない。人は己の存在において、いかなる権力も権威もそれを犯すことはできない。この自然なる権利はいかなる者にも付与された権利であり、いかなる思想信条や経済的利害においても犯さざれる権利である。
人は互いの権利を尊重しつつ、共同の福祉を追求すべき存在である。ここに道徳規範と法規範を備えた社会機構を有する現代社会がある。
世界の主な宗教の有する道徳規範は同根同類である。それが社会的利害の枠組みでいかに変わろうがそれは不変の価値であり意味である。
慣習法にしろ成文法にしろそれは互いの人権を守ることを目的として成立することが最大の目的であらねばならない。
個々人の人権を擁護することがひいては人類の福祉に連なるものだからである。そこで人は真の自由なる人格として責任ある行動が求められる。権利の行使には当然として重い義務が求められる。
そこに踏みとどまって己の行為を律することこそ開かれた人格であり、それを実現する社会こそ我々にとって必要な世界なのである。
人は利害の対立において他の生存の権利をいとも簡単に犯しやすい、他の人々が血を流す姿のその時は己がその痛みを感じなければならない。己の喜びは他に分け与えてともに喜ぶ。そこに人間としての霊性がある。
LDN通信 2016年8月号
人は己の行いにおいて己を縛り、己の考えに基づいて世界を語る。己の行いが己の人生をつくる。
己の考えが己の世界を決定する。
いかなる仇も己の行いの果実であり、偶然に起きることではない。己の行いを省みて己の行いを正す。
世界に対して不満多いときは先ず己の考えを正してみる。世界が閉じているのではなく、
己の考えが至らないが故の誤解であることに気付く。
真理を求め生きるとは実にシンプルである。注意深さと反省である。
己の身と心をよく制する。そこに秘密がある。暴れ馬を制するがごとく、己を制する。
己によく打ち勝つものは聖者と呼ばれる。
それは山に隠遁するから聖者ではない。
己の身から出る欲望を律して身を清らかに保つ、己の心を治めて智恵の道に入る。
衆生の煩悩から離れて、慈悲を行ずる。それは町中の喧騒においても、日常の生きざまにおいて行うことである。
心に仏を抱けばそこは菩薩の浄土である。
ダルマを口にすれば三界の導師である。姿を比丘にかりれば僧伽は現前する。
およそ物事は空相において存在する。如何なる己の作為もこの事実の前では力を持たない。
因果の道理をよく理解しておおらかに生活する。心を縛ることを止めて虚空に従う。
涅槃はすでにあると確信して仏の道に従う
己の考えが己の世界を決定する。
いかなる仇も己の行いの果実であり、偶然に起きることではない。己の行いを省みて己の行いを正す。
世界に対して不満多いときは先ず己の考えを正してみる。世界が閉じているのではなく、
己の考えが至らないが故の誤解であることに気付く。
真理を求め生きるとは実にシンプルである。注意深さと反省である。
己の身と心をよく制する。そこに秘密がある。暴れ馬を制するがごとく、己を制する。
己によく打ち勝つものは聖者と呼ばれる。
それは山に隠遁するから聖者ではない。
己の身から出る欲望を律して身を清らかに保つ、己の心を治めて智恵の道に入る。
衆生の煩悩から離れて、慈悲を行ずる。それは町中の喧騒においても、日常の生きざまにおいて行うことである。
心に仏を抱けばそこは菩薩の浄土である。
ダルマを口にすれば三界の導師である。姿を比丘にかりれば僧伽は現前する。
およそ物事は空相において存在する。如何なる己の作為もこの事実の前では力を持たない。
因果の道理をよく理解しておおらかに生活する。心を縛ることを止めて虚空に従う。
涅槃はすでにあると確信して仏の道に従う